第279回「深夜の自殺志願者」
スーパームーンの美しい夏の夜だった。車に乗ると外温度は34度だったが、市街地を離れて1時間も走ると温度は24度になり、風が気持ちいい。
真っ暗な誰もいない山道を走っていると、足を引きずりながらよろけている人影をみつけた。何度も通っている道だが、鹿や狐を見かけても人を見かけたことはない。「大丈夫か!」と声をかけたが、返事がないので、車を止めなかった。
しばらく走ると珍しく2台の車と行き違ったので、その車がその人をなんとかしてくれるだろうと思った。ライトを消して走れるほどの月影の中を30分ほど走った。帰り道で人影を見かけた道の近くを通りかかった。ふと気になって人影を見かけた道を戻ってみると、30分で500メートルも進んでいない。足を引きずって歩いている。
「どうしたんだ」と声をかけても口を開かない。なるほど、通りかかったドライバーが乗せなかったわけだ。やっと「近くのコンビニまで乗せて下さい」という。
山の中にコンビニなどあるはずもない。近くのコンビニまで30分以上かかる。あまり関わりたくないので、ジロジロ見ることはしなかった。荷物もほとんど持っていない。重い口を開くと実家は300キロほど離れた所だという。今、親がここまで車で向かっているという。
車に乗せた場所より10キロほど奥に大きなダム湖があり、どうもそこから歩いてきたようだ。ひょっとすると自殺願望があり、死にきれなくて人里を目指してきたのではないか?そんな想像が頭をよぎった。そうでなければ20歳の大学生がそんな所にいるはずがない。
親が来るまでは4〜5時間はかかるはずだ。私は何も聞かないことに決めた。関わりたくないのだ。助けた後で自殺したというような話は聞きたくない。
アンドレア・ボチェッリ
その時、私はアンドレア・ボチェッリのCDを聞いていた。音楽好きの高崎先生からCDをもらったが、失明したテノール歌手だと聞いて友人にあげてしまった。
しかし、夜のドライブ中にNHKの【私のプレイリスト】でアンドレア・ボチェッリの特集をやっていて、アベマリアを歌っている声を聞いてどうしても彼の歌を聴きたくなった。すると友人は新しいCDをプレゼントしてくれた。
アンドレア・ボチェッリは7歳の時まで目が見えていたが、サッカーでヘディングした時に失明した。先天性緑内障が悪化したという。しかし、そのハンディを克服して世界的なテノール歌手になり、結婚もしている。
私はアンドレア・ボチェッリの話を始めた
「君にはシューベルトのアベマリアはわからないだろうし、ヴェルディの乾杯も分からないだろう。アメージンググレースやオーソレミオをかけて歌を聞かせてあげる」
大学生は「知っている。まだ生きている人ですか?」という。
「馬鹿者。今でもたくさんの歌を歌っているよ。失明しても努力して世界的なテノール歌手になった。結婚もして子供もいる。障害を持たない君のような若者が何故、悩んでいるのだ。人は様々な境遇を持って生まれてくる。その中で戦っていくしかない。五体満足なことを喜びなさい」そう話ながら山を下りJRの駅まで送った。
「今なら最終電車で大阪駅に着く。深夜営業の店もあるので、そこで親を待ちなさい」
ドライブ日和の素敵な夜は滅多にない。雨の日もあれば新月の時もある。だからゴージャスな夜に出会うことはとても難しい。
最後までドライブを楽しめなかったのは残念だが、これを期に努力して立派な人になって欲しいものだと思った。
- 第279回「深夜の自殺志願者」
- 2023年09月20日
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