第6回「ナイロンバックが流行するわけ」
病院の診察室に置いてある患者さん用の椅子は、丸椅子で背もたれがない。お医者用の椅子は背もたれがあり、肘掛けもある。お医者さんは立派な椅子に座っているのに、患者さんは粗末な椅子に座らされる。だから患者さんの扱いが悪いと感じるかもしれない。
私のクリニックも患者さんの椅子は背もたれのない丸椅子だ。背もたれがあると腰をみたり、聴診器で背中の呼吸音を聞いたりするのに邪魔になる。だから背もたれのある椅子をつかっている病院はほとんどない。椅子の値段は私の座っている背もたれのある椅子より丸椅子のほうがはるかに高い。だから決して患者さんを軽視しているわけではない。
でも時々背もたれつきの椅子に変えようかと思うこともある。それは患者さんがとてもつらそうだからだ。人によっては、ほんの2~3分丸椅子に座っているだけで横にある診察机に肘をついたり、太ももに手をついて上半身の体重をささえたりする。背筋が真っ直ぐにのびて姿勢のよい人は丸椅子に長く座っていても平気だが、猫背の人は上半身の重みで体がくの字に曲がり、内臓が圧迫されて苦しくなる。だから体を何かにもたれかけさせようとする。背もたれに体重をあずけて座るのに慣れている人は丸椅子だと苦しくなる。苦痛な人が多いということは、猫背の人が多いことに他ならない。
ナイロンバックと軽い服
猫背の人は重い服が苦手だ。ダブルのオーバーコートなど着たらすぐに肩がこる。肩を押さえつけらて前かがみの姿勢がひどくなるためだ。だからダウンジャケットなど軽い服が流行になる。鞄も軽いものが好まれる。以前は安物に思われたナイロンのバックが流行する。皮のバックは重いから高級品でも好まれなくなった。
服がダブダブしてきたのもこのせいだ。ルーズな服がなぜ猫背と関係あるかは少し説明がいる。指に怪我をした時のことを思い浮かべてみよう。指にバンドエイドをまいた。その指を曲げると指先が鬱血して苦しくなる。それと同じで体がまっすぐだとタイトな服を着ても平気だが、猫背で体が折り曲がっていると、服が腹や胸を締めつけて苦しくなる。だからダブダブの服がはやりだした。女の人でもコルセットをつける人は少なくなったし、ブラジャーをすると肩がこって苦しいという人が多い。格好より楽なほうがいいというわけだ。男でも三つぞろいのスーツ、いわゆるチョッキを着る人がいなくなった。流行もあるが、ボタンのたくさんついたチョッキは体を締めつけて窮屈だ。靴でさえ最近は弛めのものが好まれる。
どうして猫背になるか
体をまっすぐにする筋肉は腹筋や背筋など起立筋とよばれる筋肉だ。これらが弱ると体をまっすぐにささえることができなくなる。ふだんの生活を思い浮かべてもこれらの筋肉を使う動作、たとえば重いものを引っ張るといったことはほとんどない。だからこれらの筋肉が弱ってくるのは、しかたのないことなのかもしれない。さらにうつ向く動作が多い。電車の中で本を読み出勤する。仕事は一日中デスクワーク。ご飯を食べたり、酒をのんだりするのもかがむ動作だ。体を反らす動作は、体操でもしないかぎり日常で行うことはない。
こうして猫背になってくると著しく体力が落ちる。すぐに疲れる、肩がこる、頭が重いといった不調を訴える。晴れ渡った青空のような体調の日はなく、いつも曇りの天気のようなうっとうしい体調になる。現在はこういった元気のない人が実に多いのだ。
運動で元気になる?
「猫背になってますよ」と患者さんに言うと、「これから背筋を伸ばすように注意します」という。だけど一分もまっすぐな姿勢を保つことができない。なぜなら背中の筋肉が丸くなって固まっているからだ。長い間、猫背の姿勢できているから筋肉を十分にほぐさないと、まっすぐにはならない。筋肉がゆるんでまっすぐになるとスタミナがつき元気になる。そうなってから腹筋と背筋を少しずつきたえていくとよい。順番を間違えて先に背筋や腹筋を鍛えようとすると、背中の曲がりがきつくなり、気分がわるくなって運動を続けられない。
私の経験
ある日、小学六年の男の子が治療にやってきた。受診した目的は鼻アレルギーの治療だったが、極端な前かがみの姿勢で、ひどく体がゆがんでいた。
詳しく聞いてみると、お受験して小学校にはいり、今度は中学受験を目指している。深夜1~2時まで起きていることがある。運動は学校以外にしたことがない。つまり小さいときからほとんど前かがみの姿勢で過ごし、運動らしい運動をしたことがない。中学に入って勉強がますます忙しくなると、いつ運動するのだろうと思う。体は成人するまでに作っておかなければならない。そう考えると、残っている時間はあまりない。勉強も大切だが体は若いうちに作っておかなければだめだ。受験するにも働くのにも最後に物をいうのは体力だと思う。そんなことをお母さんに一生懸命説明したが理解していただけなかった。たぶんお母さんはただ勉強さえしていれば、他のことはすべて許して好きなようにさせてきたに違いない。
- 第6回「ナイロンバックが流行するわけ」
- 1996年05月23日
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