第29話「頭のいい人」
「最近、頭のいい人という言葉を聞かなくなった。そう思わないか? 」
「確かに。聞かなくなりましたね。」
私は夕暮れのカフェで、老人と街を見ながら歓談していた。
「それはスマホのせいじゃないかな?」
「スマホ?」
「俺はスマホにいつも助けられている。文章を書く場合、漢字変換の間違いはあっても、スマホなら誤字脱字はかなりの確率で防げる。海外の友人に英語で文章を書く場合にもワードを使えばスペルチックをしてくれるのですごく助かる。」
「確かに。エクセルを使えば複雑な計算も確実にこなしてくれますよね。」
「もともと俺は記憶力が良くない。しかし、最近はうろ覚えのことでもスマホで簡単に調べることができる。覚えている断片的知識を色々と検索しているうちに知りたいことが出てくる。」
「私もレストランの名前をテレビで見たのですが、忘れてしまって。そこで二つ星だとか、色々と情報を入れていくことでたどり着きました。」
「スマホが広く行き渡るようになったのは、ここ7-8年ほどでしかないだろ。でも分からないことはその場で調べることができるようになった。医者や弁護士といった専門家でさえ、専門知識を確認するためにスマホを使うことがあるという。」
「私も確認に使うことがあります。専門書をひっくり返すより簡単ですから。」
「俺は字を書くのが下手で、大人になっても小学生の文字のようだと言われてきた。自分が書いた字が読めないこともあるぐらいだから、まあしかたがない。作文も下手で国語の時間に悪文の代表として取り上げられたことがある。
勉強のできる奴は字が綺麗で読みやすい。誤字脱字もないからそこで先生の印象はきまってしまう。考えてみると字が綺麗なことは、情報を伝える手段として大切なことだ。ところで君は英文のタイプライターを使ったことがあるか?」
「そんなものありませんよ。」
「40年くらい前まで英語の文章を書くのはタイプライターだった。これが厄介な代物で、何文字か打ち間違えるのは大丈夫なのだが、単語を間違えたりすると全部打ち直しになる。だから英語の論文を書くにはまずはタイプライターの学校に行って打ち方を勉強しなければならなかった。それからしばらくしてオリベッティが画期的なタイプライターを発表した。今のワープロに近いもので、数行ずつ液晶に打ちこんでから印刷するので、書き間違えても大丈夫になった。」
「もし手書きでラインやメールが来たら読みにくいでしょうね。たしかに字が綺麗で読みやすく、誤字脱字がないのは情報を伝える上で必須のことですよね。」
「学校の勉強は大切なもので、習字があり、作文があり、英語のスペルや漢字を覚えさせられ、掛け算などもやらされてきたのは、実生活にも本当に大切なことだったと思う。俺は勉強が嫌いな上にいい加減な性格だから学校での成績は悪かった。」
「そう考えると、たしかに頭のいい人という言葉が使われなくなったのは、スマホのおかげなのかもしれません。」
「そうそう。そう思っている。頭の良さをみせつけられるのは、特に記憶力だったな。」
「記憶がよくなければそれに関連することを書物で調べることさえできませんから。学校でいろんなことを覚えさせられたのも大切なことだったのでしょう。」
「そうだな。それにしてもいい時代になったものだ。」
受験技術の進歩
「スマホのおかげで実生活では従来の知識が必要で無くなったわりには以前と同じ教育が行われているのが面白い。本当かどうか知らないが、最近読んだ本の中で、東大の医学部に合格する60パーセントが学校は別でも同じ塾、確か鉄緑会という塾の出身だというのだ。つまり、受験テクニックが究極まで発達してきたことではないか?」
「そうかもしれません。塾のテクニックなしでは難関大学に合格するのは難しいですね。」
「東大の医学部を卒業すると、マッキンゼーといったコンサルタント会社からスカウトが来るらしい。」
「マッキンゼーはビジネスコンサルタントの会社じゃないですか。どうして医者が必要なのですか?」
「日本で一番賢い学生をリクルートできるということらしい。」
「不思議ですね。経済のことは何も知らないはずですから。東大医学部の学生の国家試験合格率はそんなに高くないです。確か92%くらいで、順位で17位くらいのはずです。」
「そこが面白いところだ。何故、国家試験の合格率が低いかというと、東大の学生は研究が好きで、臨床をやりたがらないとか、他大学のように国家試験用の講義を東大ではやらないからだとか言われている。しかし、どんな理由を並べたてようと医学部に入って国家資格を取らないという選択肢はないはずだ。」
「噂によると東大の卒業生の3割は出身塾の講師になると聞きました。お医者さんより収入がいいですからね。何やら賢いのかそうでないのは分からないですね。私のような凡人には分からない賢さなのかもしれませんが。」
「ところで君はどんな奴が、頭がいいと感じる?」
「昔は電話番号をやたら覚えている奴がいて、頭がいいと感じましたが、今ではスマホが覚えてくれていますからね。頭のいい人ですか?そうですね。他人に配慮できるとか、場の空気が読める人は頭がいいと感じますね。」
「確かに。もう学科試験で問える頭の良さは、価値を失ったのではないか?想像力とか、他人に対する配慮とか、そういった試験では問えない能力が求められているのではないかな。自分中心でなく、その場にいる自分を客観的に見る能力も大切だ。ところで君、ここのティラミスを食べてみないか?」
「他人への配慮ですね。」
「いや、いや、これも頭のよさというわけか。」と老人は笑った。
- 第29話「頭のいい人」
- 2017年06月10日
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