第162回「常識の急激な変化と日本紳士録」
30年ほど前、国立大学の研究所で癌免疫の研究を行っていたときのことだ。
奇妙な身なりをした人物が准教授を訪ねてきた。でっぷりと太って口ひげをはやし、脂ぎった顔にベッコウのメガネをかけている。服装は紺地に幅の広いストライプの入ったスーツ、派手なネクタイを締めている。
典型的な詐欺師であることは一目で分かった。
詐欺師は准教授と30分ほど部屋にこもっていた。しばらくするとドアが開き、准教授がニコニコしながら出てきた。「僕もとうとう日本紳士録に載ることになった。掲載のための費用が5万円かかるので支払った」という。
日本紳士録とは日本の有名人が記載されている書物で、それに名前が掲載されることは大変な名誉とされていた。
私が「祖父や父も載っていますが、お金を払って載せてもらったという話は聞いたことがないですよ。」というと、「あのヤロー」と血相を変えて飛び出していった。しばらくして「隣の研究室の准教授も騙された。」とテレ笑いを浮かべて帰ってきた。
それからしばらくして私はこの日本紳士録に掲載された。
何故、私のような者が掲載されたかは分からないが、3代続いて掲載されたことが嬉しかった。
しかし、ほどなくして掲載を辞退する人が増えてきた。個人情報を開示することを好まない人が増えてきたからだ。私も次の掲載を辞退した。
そうすると120年続いてきた日本紳士録は発刊されなくなった。
研究所には学位を取得するために行っていた。
医者になった時に父に博士号を取る必要があるのかと聞いたら、「足の裏についたご飯粒のようなもので、取らないと気になるが取ってもどうと言ったことはない。ただ公立の病院の院長になるには博士号が必要だ。」と言われた。
私の祖父も父も医学博士で、兄も博士号をとったので、私も博士号を取った。
面白いことに最近では誰も医学博士号を話題にしなくなった。博士号より専門医のほうに興味が行くようになったからだろう。
日本紳士録や博士号のように昔は価値があったのに、今はあまり価値がないということをよく目にするようになった。
私の子供の時からの憧れはメルセデスのスポーツカーで、何時かは乗りたいと思っていた。今では古びてしまったが、憧れだったメルセデスのスポーツカーに乗っている。
ある時、友人の奥さんが軽四に乗ってきて、私のメルセデスを見て「まだそんなものに乗っているの?」と言う。
確かに燃費はリッター6-7キロで、2人しか乗れない。維持費も高い。アクセルを吹かそうにも床まで踏める場所などない。街中では軽四に勝る性能を示すことはできない。
世間の車に対する憧れは全くなくなった。最近の調査では若者の70%の人が車には興味がないという。
我々は連続する日常の中で、世間の常識は何も変わらないように思って生きているが、時間を止めてある時点の常識を比較すると短い時間に変化していることに驚く。
癌告知
医療の現場で一番意識の変化があると思うのは癌告知だろう。
私が医者になりたての頃は、決して癌であることを患者に言ってはならないとされていた。アメリカでは小児癌に侵された子供にも癌告知をおこなっていたが、それはとても残酷なことだと思っていた。
今では癌告知は義務であり、告知をしていないと裁判で訴えられることもある。
理由の一つは癌が必ずしも致命的な病気ではなくなってきたことだ。治療すれば完治する可能性が高くなった。
もう一つは現場で治療していると分かるのだが、だまされ続けてきた患者さんが自分の病気が治らないと悟る時が、もうベッドから立ち上がれない時になる。その方がとても残酷だということだ。患者さんはまだ歩けるうちにしておきたかったことが沢山あるに違いない。
世間の常識が目まぐるしく変わる現在、それは時代が目まぐるしく動いている証拠でもある。独身の人が増え、老人が多くなり、ネットで簡単に知識が得られるようになると、それらの物から影響を受ける人々は自分の都合のよいように常識を変えていく。
世の常識を変えたいと仕掛けをする人もいる。バレンタインにホワイトデイ、さらにはハロウィン、調子にのってイースターまでチョコレート業界は仕掛けをしている。恵方巻きは寿司屋の陰謀と分かっていても食べている人が多いのに驚く。新聞は世論調査、政党支持率で政治を動かしたいと目論んでいる。ブームを作るためにマスコミを利用する人が多い。
めくるめく時代の変化、常識の推移の中で、本当に失ってはいけないものは何か?流されてはいけないことは何か?
そんなことを立ち止まって考えていく必要があるのだと思う。
- 第162回「常識の急激な変化と日本紳士録」
- 2016年05月20日
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