第17話「食道楽」
私は夢の中で老人に連れられて神戸のトーアロードにある日本料理店に出かけた。老人は評判の店だと聞いて出かけることにしたという。
店に入ると8人ばかり座れるカウンターがあり、奥には小さな座敷もあるようだ。
料理が終わりかけにさしかかった時、老人が料理人に向かって「失礼だが、あなたは吉兆で修業されたことはありますか?」声をかけた。
「はい東京の吉兆に10年おりました。」
「やはり。料理の味や皿の出し方などが吉兆と似ていたものだから。いや失礼した。」と老人は応じた。
私は「どうして分かったのですか?」と老人に聞いた。
日本料理
「吉兆に通うようになって25年くらいにはなる。だから吉兆で修業したことが分かるようになったのだ。
俺が日本料理に興味を覚えたのは、30年くらい前で、菊水、招福楼、たん熊、萬亀楼など有名な料亭に行った。ある時、大阪に出たときに梅田大丸に吉兆が入っているのを見つけて1万円の懐石を食べたらとても美味しかったので、それから時々出かけるようになった。だが、本店の吉兆にはいったことはない。」
「どうして本店にいかないのですか?」
「俺が値段の高いサービスを分からないからだ。」
「サービスが分からないってどういうことですか?」
「京都の丸山公園に未在という日本料理店がある。ミシュランの3星をもらっている店だが、そこの佐藤さんは京都の吉兆に何十年もいた人だ。そこに知人の造園家と出かけた。
君も知っていると思うが、料亭では、まず座敷に案内され、茶を振る舞われてから別の座敷に移って料理が出される。未在は小さなカウンターだけの店なので、軒の下の椅子に座って茶が振る舞われてから店内に案内された。料理は吉兆の伝統を感じるものだ。
しばらくすると、ガラスの器に氷が盛られ、その上に刺身が置かれて出てきた。造園家はその器を手に取り、『ルネ・ラリックですね』といった。俺にもその器がルネ・ラリックくらいは分かった。だが、造園家は出てくる器についてこれはどこの陶器ですねと、楽しげに佐藤さんと会話を交わす。残念ながら俺は陶器や掛け軸などは、まったく分からなかった。
もともと懐石は茶道から発達したので、掛け軸や陶器などに造詣がないと面白くないのだ。」
「つまり、茶道の素養がないと高い店に行っても楽しめないということですね。」
「そうだ。料理だけならホテルやデパートに入っている店でも十分楽しめる。」
カウンターだけの寿司屋に700回通う
「そこで梅田大丸の吉兆に通い続けたということですか?」
「いや、自分で稼げるようになると俺は親父が贔屓にしていた寿司屋に頻回に通うようになった。神戸では有名な店で繁盛していた。時間が遅いと行列ができるので、暖簾がかかる時間、つまり店が開く5時半頃に行くようにしていた。
ある日行くとまだ暖簾がかかっていない。引き戸を開けると親父さんが下ごしらえをしている。『すいません。中で待たしてもらってもいいですか?』というと、『どうぞ』と言って入れてくれた。待っている間に突出しなどを出してくれた。それを食べながらご主人と会話した。これに味を占めた俺は暖簾のかかる30分も40分も前から店に入りこんでご主人と話をするようになった。40歳で独立し、自由に寿司屋に行けるようになると開店時間に間に合うように仕事時間も決めた。」
「早く仕事を切り上げる日を作ったのですね。」
「いや、寿司屋に行くために勤務時間を長くしたのだ。」
「長くするってどういう事ですか?」
「仕事は12時半で終えるつもりだったのだが、寿司屋に行くために一週間に1日は3時半までにしたのだ。」
「昼までで仕事を終えていたのですか?そんな状況でよくやりましたね。よほど資産があったのですね。」
「いや何もない。生まれついてのエピキュリアンな俺だが、今から考えると大胆なことをしていたと思う。だが幸いなことに仕事はそれでも順調だった。
その寿司屋には必ず週に1度いった。雨の日も雪の日も通った。あまり酒が飲めない俺は一人で行って刺身や寿司を食べる。それだけなのに年末に寿司屋の親父がお歳暮を持って仕事場を訪ねてくれるくらい通った。」
「よくまあそんな状態でやってこられましたね。」
「運がよかったのだろう。俺が独立した当時、親父さんは60歳後半だったが仲良くなった。店では客は俺だけだから親父さんは料理についていろんなことを教えてくれた。
ある時、親父さんはいたずらっぽく笑いながら、『アワビの一番美味しい所はどこか知っていますか?』という。
俺が黙っていると『アワビはみなさん硬いとこが美味しいと思っているけど、本当は天です。』そういうと親父さんは鮑を貝殻から外して一番上の部分を横にそぎ取るように切り取った。そして岩についている硬い部分も切り取り、二つを食べ比べさせてくれた。
確かに天は柔らかくて旨みがある。私が頷いていると親父さんは『他の寿司屋に行って天だけ切ってくれというと、料理人は目をむいて怒りますよ』という。一番うまい所だけ食べられても困るからだ。
その話を聞いてから親父さんを観察していると面白いことが分かった。グルメぶった人が来ると親父さんは『アワビは固い所がいいですか?それとも少し柔らかめがいいですか?』などと聞いて本当の食通かどうかを確かめていた。」
「他にもいろいろ教わったのですか?」
「魚の旬、うまい食べ方など沢山のことを教わった。ある時、親父さんは俺に『鱧は骨切して食べるが、骨切しなくていい所があるのを知っていますか?そこは刺身で食べられます。』といって刺身を出してきた。それはどこかというと鱧の内臓が入っている腹の部分で、確かにそこには骨がない。1匹から取れる刺身は2-4切れほどしかない。
親父さんはアイデアマンでいろんな寿司を開発していた。ヒラメの縁側はもみじおろしを乗せてポン酢で食べる。タクアンをいなり寿司の油揚げのように半球状に開いてそこにアナゴと酢飯を詰めて握った寿司をシンコ握りという名前で出していた。そこの店には30歳ころから通い始め50歳半ばまでの25年間で700回以上通っただろう。」
「極道ですね。それで日本料理の見識が得られたのですか?」
「辻調理師学校を創設した辻静雄氏はフレンチのフルコースを1200食べるとフランス料理の良し悪しが分かるようになると言っていた。週に1度食べに行くとすると24年かかり、1食2万なら金も2400万必要だ。
親父さんの店は超高級店ではなかったし、俺も回数を気にしていった訳ではない。ただ何百食も食べると自分の中に基準ができることが分かった。別の店に行ってもここの店は何故うまいのか、値段に見合っているかなどが分かるようになった。親父さんがいろんなことを教えてくれたおかげだ。」
「ラーメンを1000軒食べ歩いて本を出している人もいますよね。料理を分かるためには結局、回数ですか?」
「馬鹿なことを言うんじゃない。ラーメンは高くても1000円までの料理だ。具材も麺と出汁、煮豚などで他の所と違う美味いラーメンを工夫できる余地はほとんどない。1000軒食べ歩いてラーメンの味を極めるといってもそれは自分のラーメンの好みを確かめる作業にしかならない。」
各店で違う吉兆の味
「それで吉兆はどうなったのですか?」
「大阪の吉兆には時々行っていたのだが、仕事場が神戸だったものだから、そごうにあった吉兆にも行くようになった。その後、大震災が起こり、店はデパートごとつぶれてしまった。だから大阪に行くようになった。」
「吉兆の料理はそれほど美味しいのですか?」
「小学生の娘を連れて吉兆にいったときのことだ。
コースの最後の飯がグリンピースを使った豆ご飯だった。炊き込みご飯が嫌いな娘は嫌な顔をしたが、一口食べて美味しいという。よく見ると豆は半分に切られていて半球状になっている。しかも表面の皮が剥かれているので、歯ごたえに違和感がなく、ご飯と馴染んで美味しい。なるほどと思って家に帰って実験してみたが、とても面倒で2度としたくないと思った。
一見平凡に見える料理でも大変手間がかかっているのが分かった。
梅田大丸の吉兆は増築のため閉鎖になった。そこで仕方なく東京に行く際に東京の帝国ホテルの中にある吉兆を利用することになった。
そこで初めて分かったことだが、神戸、大阪、京都、東京の吉兆は少しずつ味が違う。大阪と京都はほとんど同じだが東京と大阪、神戸はすごく違う。しばらくして大阪駅の伊勢丹三越に吉兆が出店したので、また行くようになった。食べ比べてみると、リーズナブルで一番美味しいのは大阪の1万円のコースという結論になった。」
私は新神戸から新幹線に乗り、弁当を食べて寝込んでいたようだ。昼の弁当は380円の鳥の唐揚げ弁当と一貫楼の餃子を買った。唐揚げ弁当は電子レンジで温めてもらい、餃子も熱々だったので、とても美味しかった。熱いだけで1500円も2000円もする弁当より美味しいのは何故かと考えているうちに寝込んでしまい、老人の食道楽の夢を見たのだった。
デパートの店だって豪華
そうそう私は寝ぼけていて忘れていたのだが、老人のいったことをもう一つ思い出した。伊勢丹三越の吉兆がデパートにある店だからといって粗末に作られているわけではないそうだ。
写真は個室を撮ったものだが、椅子はハンスウェグナーの作品で1脚13万くらいする。テーブルは60万くらいだろうか?4脚の椅子とテーブルで100万は下らない。
ハンスウェグナーを知らない人でもワイチェアなら知っているかもしれない。日本であまりに有名なこの椅子の値段は9~10万くらいだ。何故素人に分かりやすいこの椅子を吉兆が採用しなかったのかは分からないが、たぶんスタッキング出来ないからだと思う。また座面がペーパーコードというのも不特定多数が座る椅子としては弱いのかもしれない。老人はこの家具がハンスウェグナーだと分かるのはずいぶんと家具マニアだろうと言っていた。
料理店で楽しく過ごすコツは、質問することだとも言っていた。この座り心地のいい椅子はどこのですかとか、綺麗な椀ですが、輪島塗ですかなどと聞いて教えてもらうと楽しみも広がる。馴染になって頻回にいくと、料理が前回のものとかぶらないように多少の配慮もしてくれる。それが老舗の老舗たる所以だそうだ。
- 第17話「食道楽」
- 2014年09月01日
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