第7話「金銭感覚を鍛える 」
私は時計の専門店で一つの時計に見とれていた。それは金無垢のロレックスで黒チョウガイの文字盤の上に10個のダイアモンドがあしらわれている。文字盤は光の当たり方で緑色に輝いたりアーモンド色のような落ち着いた色に変わったりしてとても綺麗だ。いつかはそんな時計が欲しいと思っていると、何処からか例の老人が現れて話しかけた。
「時計に興味を持っているのか?そうなら今日は時計を話題にしながら金銭感覚の話をしてやろう。」そういうと私の見ていた時計を指差して、「その時計は買わないほうがいい。重すぎるから肩が凝るぞ。」そういって笑った。
「そんなに重いのですか?私はいい時計が欲しいのです。でもどれがいいのか迷っていたとこなのです。何か納得のいく買い方ができないですか?」
「物を買うときに商品を徹底的に調べることは金銭感覚を鍛える一つの方法だ。時計ではどんなものがいいのかを教えてやろう。もし性能だけで時計を選ぶなら電波ソーラーで10気圧防水の時計が売られている。これさえあればネジを巻く必要もないし、時間合わせの必要もない。おまけに電池を入れ替えないので完璧な防水が半永久的に続く。だからこういった5-6万円の時計で十分だ。
もし時間を知るだけなら携帯電話には電波時計の装置が組み込まれているから携帯でも十分に正確な時間を知ることができる。
では何故高級時計が存在するかといえば、それは宝飾品としての価値からだ。特に男にとって時計は重要なアクセサリーだ。昔はカフスとかネクタイピンに凝ることもできたのだが、今は時計だけが唯一男が身につけることがきる宝飾品といってもいいだろう。」
「なるほど。高級時計については機械式時計の面白さを強調するような説明がされていることが多いのですが、確かにそう言われてみれば宝飾品としての価値のほうが重要かもしれません。」
「そうだろ。今から何十年か前、正確な時間を刻む時計は男の憧れだった。その憧れが今も続いている。だが複雑な機械式時計は一つ一つ手作りで、とても高価になってしまう。だから時間を知るという意味では必要ない。むしろ宝飾品としてどれだけ見映えがするかということが重要だ。」
「なるほど。見映えですか。」
「時計の特集をしている雑誌を買ってきて、時計の写真の下に書かれている値段を隠して価格を当てるクイズをしてみると面白い。800万もする腕時計が50万の時計より安く見えたりする。値段、性能、見映え、この3つがほとんど一致しないのが高級時計だ。だから高級時計を買い求めるならよほど注意しないと妙な物を買ってしまうことになる。」
「どんな時計がいいのですか?」
「高級時計の御三家といえばパテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンチン、オーデマ・ピゲだ。これらの機械時計は確かにすばらしい性能をもっている。例えば時計の置かれている位置による時間の誤差をなくすトゥールビヨンという機構が組み込まれていたりする。だが残念なことにこれらの時計はマニアの間では有名でも一般の人にはほとんど馴染みがない。だから腕につけていても誰もそんな高価な時計とは思わない。やはり一般の人がよく知っている代表格はロレックスだ。
特にロレックスのコンビは大金持ちの人から普通のサラリーマンまで多くの人に愛されている。その理由の一つはとても丈夫なことだ。俺も長年愛用しているが、その丈夫さには本当に感心する。時計が汚れたら歯ブラシに石鹸をつけてゴシゴシ洗うことができるし、時間も狂わない。衝撃に強いのでゴルフやテニスをするときでも付けていて大丈夫だ。
デザインもよく考えられている。ベルトの外側にはステンレスを配置し、柔らかい金はベルトの真ん中に配置してある。だから鏡面仕上げの金の表面に傷がつきにくい。べゼルのギザギサは光を反射して宝石以上に光ってみえる。電波ソーラーの時計が出るまでロレックスは万能の時計だったし、今でもその価値は少しも落ちていない。
他の高級時計は水や衝撃に弱いものが多い。ロレックスだけがカジュアルな場所でもフォーマルな場所でもつけられる時計だ。あまりに多くの人が持っているので嫌だというのならフェースが隕石のものやダイアの入ったものなどが売られているからそういうのを買うのも一つの方法だ。ともかく高級時計は有名な物がいい。皆が知っているからこそ良い物を身につけていることを理解してくれる。こういった高級時計の需要はこれから上がると俺は見ている。」
「どうしてですか?」
「服装がラフになってきたからだ。ジーンズとTシャツじゃあどんな社会的階層の人か分からないだろ。スーツにしても高いスーツと安いスーツの質があまり変わらなくなってきた。だから高級時計でもつけておかないと人に馬鹿にされるのだよ。特に俺みたいな薄汚い爺さんだとなめられる。
ある時、俺は時計でどれだけ人の反応が変わるかを試す実験をした。3000円のダイバーズウオッチをしてカルティエに宝石を見に行った。店員に商品の説明を聞こうと思ったのだが相手にもされなかった。そこで金無垢のロレックスをして出かけた。すると店内の椅子に座らしてくれて、店頭にない商品まで奥から取り出して見せてくれた。それくらい対応が違うのだ。」
「なるほど。」
「豪邸に住んでいても豪邸を持って歩くわけにはいかないし、ベンツやポルシェを持っていても車に乗っていなければ余裕のある生活をしている人物には見えないだろう。ロレックスのコンビをしていると、まずまずの生活水準の人に見えるはずだ。それほどの金持ちでもなく、かといって普通すぎるわけでもない。
最近は俺みたいに若ぶった老人が増えてきた。チノパンに綿のジャケットを着てキャップをかぶった爺さんを見かけないか?もしそういう奴がGショックなど腕にはめていたら、ほんとうにジGショックだ。せめて時計ぐらいは良い物をしていないと、どんな素性の人物かわからないからな。」
「確かに。」
「時計の価値を宝飾品の観点から説明してみたのだが、何も俺は高級時計を勧めているのではない。自分が出すお金の対価として物の価値をとことん調べる癖がつくと金銭感覚がするどくなることを説明したかったのだ。どんなに小さな出費でもよく考え、よく調べて金を使う癖をつけることは自分の生活を豊かにするのにとても大切だ。そういうことを繰り返していると、無駄な出費を抑え、納得いくものだけに金を使う癖ができる。
もしお金が無くて辛い思いをしたことがあると、お金の大切さが身に沁みて分かるようになる。これも金銭感覚として大切だ。俺は子供の頃貧しかった。俺が着ていたセーターは母親が成長に合わせて何度も編みなおしたセーターだった。セーターを編みなおすと毛糸がブチブチ切れる。それをつなぎ合わせて、継ぎ目を裏に隠してセーターを編みなおす。するとセーターの裏には何十もの結び目ができる。俺はそのセーターを友人の前で脱いで笑われたことがある。
それだけじゃない。俺の履いていた靴下は親父のお古で穴が開いてゴムが延びていた。そんな薄汚い身なりからよく同級生に馬鹿にされて悲しい思いをした。だからお金のありがたさが身に沁みて分かっている。俺は自分が経験してきた金銭感覚を娘にも是非知って欲しいと思った。」
「どうしたのですか?まさかお嬢チャンに汚い格好をさせるわけにもいかないし。」
「今は俺の子供のときのような物の無い時代じゃないから、どうしたらいいのか色々と試行錯誤した。ある時、娘のために学生服のオーバーコートを買うかどうか、家で議論になった。娘の通っていた女子校では冬のコートは必要な人だけが買うことになっていた。俺は妻と相談してオーバーコートを買うのをやめた。その代わりに紺色のレインコートを買うことにした。レインコートは学校指定のものが無く、紺色の無地であれば許可が下りた。オーバーは重いし、着る期間が短い。レインコートは雨の日にも着ることができ、寒い日にもウインドブレーカーとして使える。このことを娘に説明してレインコートを着せて学校へ行かせた。すると、早速友達から『あなたのおうちはお金がなくてオーバーを買えないの?』と言われたという。娘に『オーバーを買ってやろうか?』と聞いても『いらない。レインコートのほうが軽くていい』という。つまり合理的な金銭感覚が身についてきたのだ。こんな試行錯誤の中、一番良かったと思うのは家計簿をつけさせたことだ。」
「家計簿ですか?」
「娘が東京に下宿する時、俺は娘を呼びつけてクレジット機能のついた銀行カードを渡して、『お前を東京に出すのは勉強をして欲しいからだ。だからバイトはしないで欲しい。生活で必要なものはこのカードで買い、レシートを集めて家計簿をつけなさい。その代わり金額の上限はない。もし高額な物が必要になったらその都度、俺を説得して欲しい。』こう言ってすべてを娘に任せることにした。」
「危険じゃないですか?お金を使いこむ危険がありますよ。」
「そうだな。いろんな手口が考えられる。友人と割り勘だったのでレシートをもらえなかったとか、本のレシートを友人からもらって添付するとか、他にも方法はある。もし娘がそういうことをするほどの才能を持ち合わせていれば、それはそれで大した金銭感覚だ。だからそれでいい。
俺は大学生のとき、家庭教師で貯めた金で自分の部屋にクーラーをつけて勉強していた。その当時、クーラーは何十万もする高級品で、ほとんど普及していなかった。もちろん俺の家にもなかった。だからクーラーのあるのは俺の部屋だけだった。金を何に使うか考えた時、俺は勉強の効率を上げるためにエアコンを買った。親父は小生意気な息子だと思ったのだろうが、電気代を出せとまでは言わなかった。学生でもそれくらい生意気な金銭感覚を持っていて欲しい。」
「なるほど。家計簿をつけることでお嬢さんの金銭感覚の教育は終わったのですね。」
「いや一番難しい金銭感覚の教育がまだだ。」
「何ですか?」
「いままでは金をどう使うかという金銭感覚だ。一番難しい教育は金を儲ける金銭感覚だ。この教育は娘が働き出してからでないと教えることができない。」
「でもお嬢さんが卒業してサラリーマンになったら金儲けの金銭感覚など必要ないでしょう?」
「そんなことはない。サラリーマンでも金銭感覚は大切だ。俺の親父は地方公務員だった。ケチだったから一度もボーナスを使うことがなかった。その金をすべて株に投資していた。株といっても日本が成長をするために必要なインフラストラクチャーを支える固い株にしか投資しなかった。そして無償増資があると端株を整理して株を買い足し、配当を集めて株を買い増すといった具合に資産を手入れしていた。そして一度も売らなかった。気がつくと晩年には結構な資産ができて、その金でビルを建てた。もし貯金だけをしていたらせいぜい数千万の貯金しかできていなかっただろう。」
「すごい話ですね。」
「商売人になるなら金銭感覚はもっと大切だ。しっかりした金銭感覚がないとすぐに金をなくしてしまう。事業をしたことのある人にしか分からないのだが、本当に一千万円くらいすぐに無くなってしまう。株だって寝ている間に何百万も下がってしまうこともあるのだから。」
「怖い話ですね。失敗しない金銭感覚を持ちたいですね。」
金銭感覚は学ぶものではなく、株で損したり、事業で失敗したりしながら鍛えられていくものだ。もちろん身近に商売道を教えてくれる人がいれば、あまり大きな失敗をせずに金銭感覚を鍛えることができる。」
「でもそんな人なかなかいませんよね。」
「俺の場合はラッキーだった。俺の叔父は30歳でサラリーマンを辞め、事業立ち上げて何十億もの資産を作った。その叔父を大阪のタワーマンションの最上階に訪ねた。その時、俺はある事業を始めようと思っていた。自己資金から700万ほど出して新しい商売をしたいのだが、それが妥当かどうか相談に行ったのだ。叔父は事業については反対しなかったが、『事業資金に自分の金など絶対に使っちゃいかん。事業資金は銀行から借りろ』という。俺が『利息がかかるから馬鹿らしい』というと、叔父は何を思ったのか俺を窓のところまで連れていった。眼下には大阪の市街が広がっている。
『この町並みを見ろ。すべて借金で作られてきた町だ。誰も全額自己資金で建物を建てたりしない。借金をしてレバレッジをきかせて建物が造られてきたのだ。借金は事業をするための道具、金利はカネという道具の借り賃だ。事業を大きくするためには借金が必要だ』そう教えてくれた。
俺は公務員の息子で借金は絶対にするなと育てられてきた。だから商売人の金銭感覚にとても驚いた。さらに叔父は『事業で大事なことは逃げ足の速いことだ。事業を始めてうまくいきそうにもないと思ったらすぐに止めることだ。もう少し頑張ってみようと思うと、すべてを失ってしまう』と教えてくれた。 俺は事業を始めてから8ヶ月で撤退を決めた。被害が400万で済んだのは逃げ足が早かったからだ。」
すばやい決断力も必要なのですね。板子(いたご)一枚下は地獄って感じですね。
「叔父は『やりたいことがあればやってみればいい。駄目だったら止めたらいい』という。叔父も沢山失敗している。失敗しながら金銭感覚を鍛え、成功した事業を大切に育ててきた。
ある時、叔父は町を歩いていてチケットの安売り店に行列が出来ているのを見つけて、これは儲かるに違いないと思った。そこで行列に並んで店員に商売の仕方を教えてくれと頼みこんだ。だがそんな貴重なノウハウを誰も教えてくれるはずもない。それでも諦めずに幾つもの店舗を回ったという。するとある店のオーナーが『そんなにやりたければ教えてやるからやってみなはれ』とノウハウを教えてくれたという。
チケット屋は現金を扱う商売なので、家族だけで切り盛りする零細店が多かった。だが叔父は培ってきた金銭感覚で、[その日に雇ったオバサンでもすぐに仕事ができるシステム]を作り、全国で上位に入る金券ショップのチェーン店を作り上げた。そし一番儲かっている時にすべてを売り払ってしまった。成功していても下り坂になる前に逃げることが必要なのだという。」
「大成功しても下り坂になる前に逃げるのですか?よほどの根性がいりますね。」
「そうだ。商売を成功させるためにはそれほどの根性が必要だ。金銭感覚で一番大切なのは、見切り千両(見切って逃げるのは千両の価値がある)かもしれない。起業する決断力、逃げる決断力この両方が必要だ。
サラリーマンで独立を夢見る人は多い。才能があり、努力する気力もあるのだが、怖くてサラリーマンを辞めることが出来ない人が多い。だが、ルビコンの川を渡らねば決して成功することはできない。俺も独立していろんな失敗を繰り返しながら金銭感覚を鍛え、なんとか成功をつかんできた。」
「私にはとても出来ないですね。」
「そんなことはない。小さなことから始めればいい。自分が仕事をしている業界の株を100株だけ買って、毎日の値段の変化をみているだけでも勉強になる。誰も初めから満点をとることはできない。ともかくやってみることだ。実際にやってみると、すぐにうまくいくか駄目かがわかる。うまくいかないと分かったらすぐに止めて次の仕事に移るのだ。
昔、邱永漢という経済評論家の本を読んだことがある。彼はコンサルタントをしていたから、相談に来る人がどうして金持ちになったのかを研究したという。人格者が金持ちになるのか、努力家が金持ちになるのか、それともアイデアマンが金持ちになるのか?結論は流行っている商売をしている人が金持ちになるということだった。
当たり前だと思うかもしれないが、実はそうではない。商売を始めるとき、初めから儲からない商売を目指す人が多いのだ。儲からないと分かっている親の家業をついで四苦八苦している人もいるし、自分の趣味が高じて儲からないと分かっている、例えば蕎麦好きで蕎麦屋を開店する人もいる。自分のしたいことと儲かる商売と別なのだ。サラリーマンで起業したい人に忠告するなら、自分の気持ちに捕らわれて商売をしてはいけないということだろう。
事業を通じて金銭感覚を鍛え、お金と友達になると、お金はその時々で様々な違った表情をみせてくれるようになる。その表情を理解することが金銭感覚を磨く究極の方法だ。ただ注意しないといけないのは金銭感覚を鍛えるのに夢中になると、世の中には金では買えないものがあることを忘れてしまうことだ。愛情や健康は金では買えない。金では買えないものが沢山あることを決して忘れてはいけない。」そういうと老人は何処かへ消えてしまった。
晩秋の公園を歩きながら老人の話を思い出していた。落ち葉を踏みしめる自分の足音だけが聞こえてくる。ふと私は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。澄み切った空気が私の体を綺麗にしてくれるようだ。
金銭感覚を鍛えようとして、お金と友達になるのはいいが、夢中になって恋人にすることだけは止めておこう、そう思ったのだった。
- 第7話「金銭感覚を鍛える 」
- 2010年12月13日
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