第285回「医者は様々な生き方ができる」
お金を最大の目的にする医者
20年ほど前だろうか? 後輩の医者は専門医の資格を取ると、すぐに家族を関西に残して沖縄に単身赴任した。
僻地医療に関わりたいという高邁な気持ちからではない。2,000万円という高額な給料を求めてのことだ。そして週末は自宅に帰ってくる飛行機代も病院に負担させていた。
その後、沖縄は人気のリゾート地になり、多くの医者が沖縄で働くようになった。そこで3年ほど前、その医者は北海道に2,500万円の給与を求めて転職した。
つまり、日本の南の端から北の端まで移動したことになる。
学士入学の医者は医学部に良い刺激を与える
最近、学士編入試験を利用して、30歳~40歳代から医者になる人が増えてきた。現在、29もの大学で医学部の編入試験を実施している。
ほとんどが2年次への編入だが、受験者にとっていいのは働いてきた経歴を評価されるから、一般入試よりはるかに楽に合格できることだ。
様々な職業から医者になる人が多い。医学部にとって大変いい制度だと思う。様々な経験を持つ人が学生に刺激を与えるからだ。
ただ、医者になっての5年の勉強と2年の研修を終えると40〜50歳になっているはずだ。どんな科の専門医になろうとも1人前になるには10年の経験が必要だから、じっくり努力して病気に苦しんでいる患者さんを治して欲しい。
開業すれば、医者としてのスキルを伸ばすことが出来ないばかりではなく、開業には1億以上かかるので、事業継承でしか開業できないことを知っていて欲しい。
30年前、私は漢方丸薬の研究や鍼灸、オステオパシーの研究を始めた
私は医学部を卒業して学位を取り、認定内科医の資格も取ってすべての勉強が終わったので、40歳で開業した。
当時は診療予約という習慣がなく、突然に患者さんが来られる。もし休診なら遠方からの患者さんに大変な迷惑がかかる。
そこで大胆な診察時間を決めていた。月、火、水、金は昼まで、土曜日は3時までだった。週の労働時間はたったの17時間。その代わり、出勤日はどんなことがあっても休まなかった。
患者さんは3分の2が自費診療で、開業した神戸の患者さんが半分、残りの半分は市外もしくは県外だった。
歩いて来られる近所の患者さんは2~3人しかいなかった。東京からの患者さんも20人はいた。患者さんは来られた患者さんの紹介だから診療日の問い合わせもなかった。
無論、休診日は、遊んでいたわけではない。
佐賀県の唐津に住んでいたオステオパシーの古賀正秀先生を訪ねたり、春ウコンの研究者を町田市に訪ねたりして知識を広げていった。さらに丸薬の製造の勉強のため、丸薬を作っている工場を訪ね歩いた。また、それまで医者がまったく興味を持っていなかった伝承医学の研究も始めた。
随分と勉強になったが、診察日が極端に少ないので、収入も少なかった。
叔父はバスケット70年間も現役選手
医者は研究者にもなれるし、役人にもなれる。私の父は小児科医だったが、幼い子供が闘病するのを診たくないので臨床医から行政職に移った。
弟は医者だが遺伝子を研究してスタンフォード大学に留学していた。兄は医者を派遣する会社を経営していた。
叔父は県立病院の医者だったが、運動が好きで、土日には、ラグビー、バスケットなどを楽しんでいた。特にバスケットは70年前の医学生の時、東京オリンピックの候補に選ばれていたが、戦争で行けなかった。
87歳の時、日本体育協会からエベレストに登頂した三浦雄一郎氏と共に表彰された。その時もバスケットの現役のコーチをしていたから70年間現役をしていたことになる。
私の父、従兄弟の2人、兄や弟など家系は医者ばかりだが、皆は大学病院などに勤めていて、開業医は私しかいない。だから何やら半端者のような気がしないでも無い。
いずれにしても医者はいろんな仕事ができる本当に面白い仕事だと思う。
- 第285回「医者は様々な生き方ができる」
- 2023年12月10日
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