第14話「車の楽しみ方」
「俺が講義を終えて医局に戻ると秘書が熱いコーヒーを入れてくれた。薬剤師だが、もう何年も前から薬理学教室の秘書を勤めている。髪を栗色に染め、ノリのきいた白衣を着ている。
秘書が『私、ずいぶん金遣いが荒くて貯金が出来ないの。自動車のレースをしているから。車はトヨタのレビンを改造してレースをしています。』と言う。
『レースは確かに金がかかる。いくら金があっても足らないだろ。キャブやショックアブソーバーを買い揃えていくときりがない。レビンはOHVだ。結構いいエンジン音がする。後輪がハの字に開いていると恰好いい。』などと話が盛り上がった。
俺はメルセデスのスポーツカーで講義に来ていたので、『運転してみるか?』と声をかけた。
運転席に座ると秘書は髪を後ろでまとめ、白衣の袖を回折り曲げて走り始めた。レースをしている女のスピード感覚は違う。俺は助手席でありもしないブレーキを何度も踏むはめになった。運転しながら『ステンレスの排気管が紫色に焼けているのを綺麗と思いませんか』などと、妙にマニアックなことを俺に聞いてきた。」そういって老人は車の話を始めた。
「そこまでの車好きの女性は少ないですよね。」
「そうだろ。世間には車好きが多いが、大半は高い車を買うことで自分は車好きだと思っている。それも車好きには違いないが、俺はガキの頃から車を楽しんできた。金がないからボロの軽自動車に乗っていたが、それでも楽しかった。今から考えると随分馬鹿なこともしてきた。」
「どんな馬鹿なことをしたのですか?」
「古いダイハツ フェローを買った時だ。家庭用のスプレー塗料を買ってきて屋根だけ黒に塗った。艶消しの黒に仕上がったので、レザートップのようになった。当時の写真はないので、どんな感じかというと、」そういうと老人はネットでフェローの写真をプリントアウトして屋根だけマジックで黒くした。
「カッコいいですね。なんだか欧州車の感じがします。」
「そうだろ。この車で飛ばすと排気管にこびりついたオイルが真っ赤に焼けて排気管からはがれ落ちる。後ろから見ると火の粉をまき散らしているようだった。次に買ったのがスズキのフロンテだ。しばらくして走行中に横転したので廃車にした。」
車で横転!
「横転ですか?」
「そうだ。カーブで横転したのだ。空に向かってドアを開けると結構重い。横倒しになった車内でルームミラーが割れていた。通行人が引きつった顔で俺を見る。何故か分からなかったが、ミラーで額を切り、顔が血だらけだったからだと後で気がついた。」
「よくご無事できたものですね。他には事故はないのですか?」
「運がよかったのでほとんど怪我はしていない。しかし、今考えると、無茶をしていた。山道を飛ばして車を追い抜いた瞬間に180度スピンして向かい合う格好になったり、サイドブレーキターンをしていて壁に激突したこともある。」
「ちょっと待ってください。ブレーキターンって、走行している時に急激にハンドルを切り、サイドブレーキを引いて後輪をスリップさせて180度回転するという技でしょ。どうして壁に激突するのですか?」
「広い場所でそんなことをしても面白くないだろ。だから壁に真っ直ぐ走っていって、ぎりぎりの所で車をスピンさせる。どこまで壁に近づけるかを試していて壁に当たったのだ。」
「どうしてそんな馬鹿なことをしたのですか?」
「分からないな。車という道具をどれだけ楽しめるか確かめたかったのではないかな。車は実用と趣味の間に位置する不思議な乗り物だ。運転を職業とする人にとって車は単なる道具でしかない。しかし車を趣味とする人もいる。物や人を運ぶという実用面と趣味性の高い遊び道具としての両面があり、相反する要素が存在している。」
「その中で趣味性を追求していったということですか?」
「そうかもしれない。車を通勤の足に使ったこともあるが、歩かないと運動不足になるし、渋滞を走るのは嫌なので主に趣味の道具として使うようになった。」
「多くの車に乗ってきたのでしょう?」
「金がなかったから、若いころはホンダN360、フロンテクーペ、シビック、ルーチェに乗った。」
「結構、乗っているじゃないですか?」
「シビックは友人のお母さんが五十肩になり、ハンドルが重くて切れないので、タダでもらった。買った車も10万円もしないボロボロの物ばかりだ。金が無いので惨めな思いもした。ある時N360で走っているとボンネット内で金属がはじけ飛ぶような音がして走れなくなった。原因はプラグがエンジンヘッドからはじけ飛んだ音だった。」
「プラグってエンジンヘッドにネジで着いているはずですよね。どうしてそんなものが飛ぶのですか?」
「型番の合わないプラグを無理やりねじ込んでねじ山を削ったのが原因だ。買ったときからそうなっていたのだから悲しい。ボロの車しか買えないからトラブルが続いていた。そのうちに親父が安い車なら買ってやると言い出した。そこで俺は26万円のホンダライフを見つけた。」
ホンダライフ
「地味な車ですね。」

波打ち際のホンダライフ
「カッコいいですね!」

右ハンドルだと助手席が上に来るのでとても怖い。スリルを求めて傾け過ぎると車が倒れそうになる。
「女性も迷惑したでしょうね。」
「ライフは以前の車と違って故障しないので旅行に行くようになった。民宿ガイドを後部座席にほり込んで走る方向だけを決めて走り出す。運転に疲れると電話ボックスから民宿に電話をかけて泊まる宿を決める。そんな気楽な旅行だ。100キロしかスピードのでない車で東名、名神を7時間半で走り抜け、友人の住む千葉県の船橋までいったこともある。金沢や九州の有明海まで行ったが、どんな時も一人旅だった。」
車を楽しむためには女性は邪魔
「どうして彼女と行かなかったのですか?」
「手間がかかるからだ。女を乗せて山道を飛ばすとたいてい気分が悪くなって吐いてしまう。」
「無茶な運転だからでしょ。」
「ある時、女を乗せてカーブを曲がったら、助手席のドアが開いて女が膝に乗せていたハンドバックが遠心力で外に飛んで行った。またある時、俺が少し急ブレーキを踏んだら、助手席の女がフロントガラスに頭をぶつけやがった。怪我はなかったのだが、後で見るとフロントガラスに長い毛が5-6本ついていた。そんな経験を踏まえて車に乗る時は一人で乗ることにした。」
「野蛮な運転ですね。それからどんな車に乗ったのですか?」
「働き出して少し金が出来るとホンダのプレリュードを買った。これには電動のサンルーフがついていて、それから買う車はみんなサンフールフ付きだ。屋根を開けて走る楽しみを知ってしまったのだ。」
高い車は魅力的か?
「ポルシェやBMWなどは乗ったのですか?」
「ポルシェ911は魅力的だが、ほとんど左ハンドルしか日本に入ってこない。右ハンドル車にするとシートがオフセットして運転しにくいので左がいいという人もいるが、やはり左は不便だ。
BMWはZ4を買おうとして調べたことがある。ホイールやハンドル、シートのオプションが沢山あり、組み合わせによって同じ排気量でも随分値段の差ができる。それなら高くてもベストな組み合わせを始めから提案すればいいと思ってしまう。ベンツにはそれほどのオプションがなくてすっきりしている。試乗もしたがBMWは気にいらなかった。
そもそも高い車がいいとは限らない。よく売れる車ほど値段を下げることが出来る。もしカローラを1000台しか作らなければ、とてつもなく高い車になるはずだ。高い車はいい部品を使っているから高いこともあるのだろうが、生産台数が少ないので高くしか売れないという事情もある。」
「確かに。カローラが1000台なら1台2千万くらいしてもおかしくないですものね。」
「それに高い車ほど車体が大きくなるのも困ったものだ。マセラッティやキャディラックを持っている知人はゴルフに行く時にしか使っていない。スピードが出る車でも速度制限があるから性能を十分に発揮することはできない。」
「私はAMGのベンツに乗ってみたいですね。」
「高い車は修理費も高い。AMGのタイヤは超扁平タイヤで普通に走っても8000キロしか持たない。1本8万するから8000キロごとに32万かかる。」
「高いですね。」
「台数の少ない車は部品の値段も高くなる。大きい声では言えないが自動車会社は修理にも売り上げ目標があるのを知っているか?」
「修理って、壊れたからもっていくのでしょ。修理の売り上げ目標って何ですか?」
「オイルが汚れていますから交換しましょうとか、バッテリーが寿命ですなどといって、早めに交換させることもあるらしい。高い車ほど放っておくと高くつきますと言われればディーラーに任せるしかない。金持ちはいいカモにされているのかもしれないな。ディーラーだって車を売るだけじゃ豪華な店舗を維持できない。高級車をプレハブ小屋で売るわけにもいかないだろ。」
「なるほど。それで車の楽しみ方はどう変化していったのですか?」
「安全に車を楽しめる方法がないか追及するようになった。」

排気管がパイプ管のようなホンダCL72。当時からクラッシクバイクで、売ってくれと声をかけられたこともある。
その後、車に楽しみを見出そうとゴルフのカブリオを買った。これでオープンカーにハマった。もともとバイクで育った俺は風を切って走る楽しみを知っていた。ただバイクは俺には危険すぎる。3度もバイクで車と衝突したことがあるからだ。車なら風を切る楽しみを感じながら安全に走ることが出来る。」
「ただ屋根が空いているだけでそれほど楽しいのですか?」
「風には色も香もある。桜が散る頃の風は暖かな春色だし、夏の夕暮れ時の風は青く澄んでいる気がする。秋のピンと張りつめた寒さの中で車の暖房を効かせて夜の郊外をドライブするのは最高だ。満点の星空の下を走ってみたら誰でもオープンカーにはまるはずだ。」
「夜のドライブに行くのですか?」
「そうだ。いつも真夜中だ。車が前にも後ろにもいない田舎道を走る楽しさは言葉には言い表せない。土の匂や草の匂いがする。虫の音も聞こえる。最近、野生動物によく出会う。お母さんイノシシに連れられた瓜坊やタヌキ、アライグマがいる。俺は冬でも、小雨でも必ず屋根を開けて走っている。」
「オープンにすることで車の趣味性を満足させることができるわけですね。」

六甲山ドライブウエイの霧の一コマ。神戸市内から40分ほどで標高932メートルの山頂に行くことが出来る。たった40分で気候が一変する。夏市内は35度でも裏六甲では26度になる。突然、霧がかかったり、雪が降り出して30分で10センチ積もったこともある。
「楽しむためにはやはり高い車がいいのですか?」
「そんなことはない。どんな車でも楽しいと思う。高い車は傷つけられないか駐車する時に気を使うし、リセールバリューを気にして運転していたりする。持ち主の気持ち次第でどんな車でも楽しいのだと思う。」
ふと気づくといつの間にか老人は夢の中に消え、私は東京モーターショーの会場にいた。
今年のモーターショーで私が欲しいと思った唯一の車がホンダのS360だ。今回のショーのために復刻されたものだが、エンジンはツインカムなのに後輪を動かすのにドライブシャフトでなく、自転車のようにチェーンではないかと思う。細いステアリングリムを握って運転するとどんな感触なのか想像してみた。
- 第14話「車の楽しみ方」
- 2013年12月24日
こちらの記事もあわせてどうぞ
夢の中の老人 の記事一覧へ

患者さまお一人お一人にゆっくり向き合えるように、「完全予約制」で診察を行っております。
診察をご希望の方はお電話でご予約ください。
- 読み物 -
- ●2025.02.10
- 第326回「2007年からの処方集」
- ●2025.02.01
- 116.心房細動と房室ブロック
- ●2025.01.25
- 第325回「鳥瞰図(ちょうかんず)」
- ●2025.01.20
- 第324回「世界中で多くの言語が消えている」
- ●2025.01.10
- 115.強力な下剤
※ページを更新する度に表示記事が変わります。