第84回「古傷」
母が足首を傷めたのは確か50歳くらいのときだった。漬物石を誤って足の上に落としてしまったのだ。ケガはそれほどひどくなかったが、足首をかばって歩いているうちに膝が痛くなり、膝に水が溜まった。当時、母は同居していた舅や姑にこき使われていた。だから症状は悪化の一途をたどった。生活環境もよくなかった。戦後すぐに父が建てた家はすきま風がふきこんでいた。そんな状況の中、母の膝の痛みは反対側の膝にも移っていった。整形外科では変形性膝関節症、つまり老化による膝の変形といわれた。だが足首をかばって膝に負担がかかったのは明らかだった。その後、膝関節だけでなく股関節まで負担がかかり、変形性股関節症と診断された。病気は足首から膝、膝から股関節へと下から上にあがっていった。母は苛酷な環境の中で左右の膝と右の股関節を人工関節に変える手術を受け、今は車椅子の生活を送っている。
父は座骨神経痛の持病があった。兵隊のときに酒に酔って馬から落馬して左腰を強打したからだという。父が70歳後半のころ、私の診療を受けに来た。2~3日前から首が痛くて回せなくなったという。診てみると腰椎の左側にテニスボールくらいの固い筋肉のシコリがある。ここに鍼を打つことで首の症状はなくなった。
「首が回らないのは腰が悪いからだと思う。腰を打撲したことが原因だろう。腰を治療することで今日は良くなったが、腰にあるシコリがなくなるまで治療を受けたほうがよい。」と父に言った。だが父は来なかった。1年ほどしてまた首が痛くて回らないとやって来た。同じ所を治療したが良くなるまで1週間かかった。それから半年ほどしてまた首が痛いと言ってやってきた。今度は簡単には治らなかった。3週間ほどかけてやっと痛みは取れたが、その後首は回らなくなり、腰を含め体全体が動かなくなっていった。
病気は他の関節にも移っていく
母は若いときのケガを十分に治すことができないまま次々と関節が悪くなり車椅子の生活になった。父は若い時のケガが原因で首が動かなくなり運動できなくなってしまった。ケガをした関節だけでなく他の関節も悪くなっていくのが怖しかった。
考えてみると長く生きてくれば誰でも一度や二度は捻挫や打撲をした経験をもっているが、ケガが治ってしまえば誰も気にする人はいない。治ったはずの古傷が痛むこともあっても勝手に治ってしまうことが多いからだ。
父や母のようにケガをした関節が他の関節にも影響を及ぼしていくのだろうか。そこで、私の所に通院しているいろんな患者さんに聞いてみた。すると若い時の捻挫、ぎっくり腰などが原因で傷めた関節だけでなく他の関節を患っている人が多いことに驚いた。たとえば何度かギックリ腰をしている人は腰痛だけでなく膝関節を患っていたりするのだ。
こういった現象がおこるのはおそらく次のようなことからだ。つまりケガをした関節は完全に治っていても微妙に関節の動きが悪くなっていることが多い。歳を取って体全体が固くなってくるとその歪みが他の関節にもひびいてくるのだ。体が柔らかい若い時は、悪い関節の動きを全身の関節の動きがをカバーしている。だから一時的に関節が痛んだとしても自然に治ってしまうのだ。
母は片方の足首のケガから股関節まで数珠つなぎのような症状が30年かけて起こった。 父は毎年、毎年、首の症状がひどくなっていき最終的にはほとんど首が回らなくなった。こういった経過をみると、歳とともにからだの筋肉や関節が固くなり、それにつれ次第に他の関節も悪くなっていくという経過がよくわかる。
父や母のもともとのケガは、それ自体は大したものではなかった。それが他の関節に新たな病気を起こしてくるようになったのは、全身の関節が固くなる年齢まで両親は長生きすることができたからだろう。寿命が50歳~60歳までなら関節や筋肉の硬化は他の関節に影響するほどでもなく、こういった現象は顕著には現れなかったと思われる。
どうすればいいか
ケガをした関節の手入れをするのは当然のことだが、体全体を柔らかく保つことはそれ以上に重要だ。体全体を柔らかくしておけば、悪い関節の影響を最小限に止めることができる。ストレッチや整体などで体の固い場所を積極的に治しておくといい。
私の感想
関節が痛む人は放置せずに治してほしい。一般に関節はいっとき痛んでもまた痛みが無くなってしまうことが多い。多くの人は父のように痛むときには治療を受けるが、痛みが取れると治療を受けなくなってしまう。痛みがなくなっても治ったと思ってはいけない。70歳を越えると筋肉が急速に固くなって様々な障害が出やすくなる。だから症状がなくとも体を柔らかく保つ努力をしたほうがいい。関節の病気は恐ろしいと思う。生きている間は自分で歩けることが大切だ。歩けなくなると自分が辛いだけでなく、大変な出費を強いられることにもなる。自分一人でトイレに行けること、風呂に入れることが自活できる最低条件なのだから。
- 第84回「古傷」
- 2002年11月26日
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