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漢方医

第11回「開業そして山本先生との別れ」

開業医と無人島の毒芋

私は鐘紡記念病院で難病の患者さんを積極的に治したいと思った。難しい病気を治すには煎じ薬が必要だ。そこで、煎じ薬を置いて欲しいと病院に頼みにいった。だが煎じは手間と費用がかかるのでダメだと断られてしまった。
確かに、煎じ薬の管理は厄介だ。煎じ薬は生薬を小さく刻んで乾燥させてあるが、虫の卵が産みつけられている場合がある。虫の卵は毒ではないし、煎じれば卵も死んでしまうので問題ない。ただし、煎じ薬を保管しておくと虫の卵が 孵化 ( ふか ) して煎じ薬全体に虫がついてしまう。虫の孵化を抑えようと思えば、室温を26度以下に下げておく必要がある。だから夏はエアコンを入れっぱなしにしておく。調剤も厄介だ。一人一人に合わせて生薬を混ぜていく。2週間分を処方するのに最低20分はかかる。処方が混雑したときを考えると何人かの薬剤師を常時抱えておく必要がある。煎じ薬を置くのは厄介だが、煎じがなければ本当の漢方治療はできない。

煎じ薬を使い、鍼灸ができる、こういった環境を整えることが出来るのは、結局、開業しかなかった。そこで開業することを決心した。とりあえず山本先生に開業の挨拶にいった。
「先生、今度、開業することにしました。できれば先生に医院の命名をして欲しいのです。」とお願いした。「それはよかった。名前は考えておきましょう。」と先生はいって、私を料亭へ連れていった。酒のせいか先生は饒舌になり、第二次世界大戦当時の話を始めた。

「戦争も終わりかけのころ、日本のある部隊が南洋の島に流れついた。その島には水はあったが食料がなかった。鳥とかトカゲなどの動物はいたが、大きな島ではなかったから兵隊たちによって、すぐに取りつくされてしまった。皮肉なことに島の中には毒芋だけは豊富にあった。多くの人が餓死する中、何人かはこの毒芋を食べて日本に帰ることができた。」
「毒芋を、ですか。どうして毒芋を食べることができたのですか。」
先生は気をもたせるようにしばらく沈黙してから次のように続けた。
「兵隊の中に徳島出身の者がいた。徳島では栃の実を栃餅にして食べる習慣がある。栃の実はそのままでは食べられないから、水にさらしてから食べる。じつは毒芋も十分に水にさらすと毒が抜けて食べることができた。空き缶に釘でたくさんの穴を開けてオロシガネを作る。このオロシガネで毒芋を下ろして水の中で長い時間さらうとデンプンが沈殿する。このデンプンには毒がない。これを食べて生きて帰れたというわけだ。栃の実を食べる習慣のない地方の人には、こういうことは思いもつかなかっただろう。島には毒芋がたくさんあるといっても限りがある。だからこの調理法を思いついた兵隊は誰にもこの調理法を教えなかった。教えれば毒芋もすぐに取りつくされて、皆が飢え死にすることは目に見えていたからだ。」こう言って、先生は上機嫌でお酒を楽しまれた。

帰りのタクシーの中で先生の言ったことを思い出してみた。「兵隊とは医者のことだろう。医者が多すぎて食べるのに困る時代になった。そんなとき自分がうまい治療法を知っているからといって調子にのって知識をひけらかしていると自分まで食えなくなってしまう。自分の知識を大切にしなさい」そういうことが言いたかったに違いない。

私が開業した時はエキス漢方全盛の時代になりつつあった。大病院や大学病院で漢方薬を投与する時代の幕開けだ。漢方医学の老舗は開業医だが、一般の人には大学病院のほうが優れた漢方医がいると思えてしまう。そうなれば開業の漢方医から大病院に患者さんが流れていく。そういう時代の流れも読んだ山本先生から私への忠告だった。

開業

開業前に山本先生が私の医院を訪れた。「先生から依頼のあった医院の名前を考えました。杏林伝説由来の名前です。先生も知っていると思いますが、杏林伝説の 董奉 ( とうほう ) という名医は軽い病気の者には杏の木を1本、重い病気の者には5本植えさせました。名声を頼って多くの患者が集まったので、いつしか大きな杏の林ができました。医院の名前は 香杏舎 ( こうきょうしゃ ) ヒガサクリニック、香杏舎とは杏の花の香がたちこめる医院という意味です。日笠診療所とせず、ヒガサクリニックとしたのは漢方のみならず西洋医学も使って治療をして欲しいからです。」そういって祝い袋を差し出した。分厚い祝い袋の中には50万円入っていた。
実際に開業し始めると、家賃、人件費、薬代にすごくお金がかかる。運転資金として貯めた1000万円は6ヶ月で無くなった。幸いにも少しずつ患者さんが来てくれたので、赤字になることはなかったが、開業医も2代目でないと、大変だということが分かった。

あまり知られていないことだが、漢方科とか東洋医学科という名称は標榜科目(外科とか産婦人科のように標榜していい科目)として認められていない。だから漢方で開業しても標榜は内科になる。電話帳に登録すると内科になる。内科だと思ってくる人がいても、薬は漢方がほとんどだから、患者さんの要求に答えることができない。そこで電話帳には載せないことにした。ある時、患者さんが「診察券を落として電話番号が分からないからNTTの番号案内に電話した。するとそういう医院は無いと言われた」と言う。こんなことが続けば、もぐりの医者と誤解されてしまう。そんなことがあってからは電話帳に電話番号を載せることにした。

震災

開業してやっと3年目、1995年1月17日の朝、激しい揺れに飛び起きた。子供の弁当を作りかけていた妻と寝ていた子供が私の所に駆け寄ってきた。私は2人の肩を抱きながら「大丈夫、大丈夫」と励ました。だが、マンションが倒壊するのではないかと思ったほど大きな揺れだった。大きな揺れが収まると、すぐに両親に電話をかけて安否の確認をした。電話がすぐに通じなくなるのを恐れてのことだ。無事を確認すると、今度は家の中の被害を確認した。外の様子はどうなっているのだろう。懐中電灯を取り出してベランダに出て、回りの様子を見ると、2階建ての民家の一階部分が完全に潰れているのが見える。大変なことが起こったのだと思った。火災が起こっていないか確かめた後、マンションの水道が出るか妻に確かめさせた。幸いにも水は出る。水をすぐに鍋に貯めさせた。マンションの水は貯水槽に一旦貯められてから配水される。貯水槽までの水道管がやられていれば、そのうちに水が止まるはずだ。案の定、しばらくすると断水してしまった。

震災で一番印象に残っていることは静寂だ。マンションのベランダから見下ろしても人通りもなく、助けを求める声も聞こえない。救急車、消防車、パトカーのサイレンもない。町は静寂が支配していた。次の日、自転車を買い求めて自宅から20キロ離れたクリニックの様子を見に行くことにした。国道2号線は電柱が道に倒れ、倒壊した建物が道を塞いでいた。自転車に乗れる場所は少なく、押して歩くことが多かった。行きかう人は無表情で誰も口をきかず、ここでも静寂が支配していた。

私はふと病院に当直していた時のことを思い出した。日曜日の昼過ぎ、救急患者が運び込まれてきた。21歳の男性、病院に到着したときはすでに心肺停止状態だった。ゴルフ場で昼ごはんを食べているときに急に苦しみだして意識を無くした。急性心不全だった。あわてて母親がやってきた。私は母親に死亡確認の時刻を告げた。母親はキツネにつままれたように無口で無表情だった。急に起こった不幸が信じられないのだ。母親のような心境が何十万人の心に同時に起こり、みんな無表情で無口になったのだと思った。急な不幸が個人を襲っても新聞には報道されない。多くの人に同時に起これば大々的に報道される。毎日、報道されない不幸で悲しんでいる人がたくさんいる。そういった日常の悲しい出来事の上に重なるように、地震は多くの人を一度に不幸にしてしまった。自転車を押しながらそんなことを思った。医院に着くと散乱しているカルテや倒れている機械を起こして整理するのに8時間かかった。それからすべてのカルテを見なおした。私のクリニックでどうしても薬を切らしてはいけない人のリストを作り上げるためだ。この人たちには薬を郵送してあげる必要があった。

震災を経験して一番大切な地震対策は、[風呂の水を落とすな]ということだ。風呂の水があればトイレの水を流すのに使える、洗濯もできる。火事になれば消火にも、いざとなれば飲むこともできる。地震ために食料品や水を買い置きする必要はない。一番簡単で効果がある方法は風呂の水を落とさないことだ。震災から私は家族に小さな懐中電灯と笛を持たせている。懐中電灯は震災ではなくても地下鉄や地下街の停電にも役に立つ。ホテルに泊まっているときの火事でも必要だ。笛は大声を出す機会のない現代人には大声を出し続けることが難しいと思うからだ。防犯にもなる。最近、懐中電灯を持つことを止めた。携帯電話の液晶でも十分に明るいからだ。カメラ付の携帯では写真を撮るときのライトは、とても明るくていい。そこで携帯電話の予備バッテリーを持つことに変えた。

相場師のような漢方医の仕事

漢方医には相場師のような仕事がある。損を覚悟で取り引きしなければいけない場合もある。ある時、北海道でしか取れない糖尿病に効く生薬があると聞いた。試しに使ってみたいと思って生薬問屋に注文したが、流通していない。「どうにか探せないか」と頼むと、しばららくして返事があり、「1キロ、1万五千円で2~3キロなら入る」と言う。「2~3キロでは効果が分かりにくいから10キロほどまとめてくれないか」と頼んだ。すると「30キロほどまとまりました」と電話がかかってきた。10キロなら試しに買おうと思っていたが、30キロなら45万かかる。流通しない生薬を無理に集めさせて、「10キロでいい。後の20キロいらない」とは言えない。10キロだけ引き取ると、20キロは問屋の在庫になる。流通しない生薬を抱えると問屋は困ってしまう。採取業者に引き取らせてもいいが、そうすると問屋の面子がつぶれて、次から集めてくれない。そこで「わかった。30キロ、全部買う」と返事をした。結局、この生薬は効かず45万円が消えてしまった。

太ミミズを研究していた。ミミズは漢方で解熱剤として使われてきた。国産のミミズを使ってみたいのだが、採取業者がいなくなってしまった。釣りミミズという細いミミズは飼育できるが、太ミミズは採取するしかない。ミミズの養殖業者で、新聞にも載ったことのある人物に電話をかけて、太ミミズが採取できないか聞いてみた。すると、「集めるには準備のための費用がかかる」という。そこで銀行口座に10万円振り込んだ。ミミズが出てくる前の3月だった。ところが8月になっても9月になっても連絡がない。業者に電話すると、「日照りでミミズが集まらない」という。騙されたのに気づいたが、どうすることも出来なかった。

生薬を買うのはマグロの仲買人のような仕事だ。下手をすると大きな損を抱えてしまう。言い値で買っているとなめられる。良いものを安く買うには生薬を見る目がいる。騙されることを恐れて何もしないと腕が上がらない。生薬がテレビで紹介されると、値段が高騰して買えなくなることもある。漢方医の仕事はハードだ。文献を読み、新しい薬を考え、講演や講義をしていく学者的な仕事の一方で、相場師のような度胸の必要な仕事もあるのだ。

山本先生の死

開業すると、忙しくて山本先生に会う機会は次第に少なくなってきた。久しぶりに弟子たちが主催する勉強会で山本先生が講演をするという話を聞きつけた。私は担当者に電話して、「先生の講演前に30分でいいから講演時間をください。どうしても先生の講演前に講演したい」と頼みこんだ。これだけ先生にお世話になり、貴重な知識を教えてもらっているのに、一度も面と向かってお礼を言ったことがなかった。だから弟子たちが集まる講演会場で山本先生にお礼を言いたいと思ったのだ。

先生は勉強会に少し遅れて来られた。日曜日も診察している先生の診察時間が伸びてしまったようだ。久しぶりに会う先生にいつもの元気はなく、気虚の顔をされていた。私は山本先生を前に講演を始めた。
「私のような鈍才がこうして漢方医として仕事ができるのも山本先生が惜しみなく知識を与えてくれたおかげです。今まで、お礼を言う機会もなく過ごしてきましたが、今日は、先生が教えてくださった知識により、どんな病気を治すことが出来たかをスライドを使いながら説明していきたいと思います。まずはアトピーの症例から説明していきます。」
私は用意した何十枚ものスライドを、弟子の医者や薬剤師の前で紹介していった。「最後になりましたが、先生から教えていただいた知識を発展させていくのが私の一生の仕事だと思います。先生、本当にありがとうございました」と締めくくった。講演を終えて席に戻る私を呼び止め、「立派になられましたね」と先生は声をかけてくれた。続いて山本先生の講演が始まった。だが先生は立っているのも辛そうで、20分ほどで講演を切り上げられた。

後で聞いたところによると、先生は講演会の後、すぐに入院されたのだという。見舞いに行こうと思ったが、家族が身内以外の面会を拒絶していたので、どんな病状なのか、まったくわからなかった。それにしても先生が入院する前にお礼を言うことができてよかったと思った。

個展の案内状絵はがき見舞いにも行けず、容態も分からない重苦しい日が続いた。私のできることは何も無かった。悲しい気分で過ごしていたある日、一枚の絵葉書が郵便ポストに入っていた。ポストから取り出すと、絵葉書に見とれてしまった。早春の光を浴びて花を咲かせるプラムの木。春を告げるまぶしい光と、まだ冷たい早春の空気を感じることができた。ふと我に返って文面を読むと、それは個展の案内状だった。フランスのロアール地方に住む日本人画家が東京と大阪の三越で個展を開くらしい。案内状の裏に書かれた文面には、「同級生の上森の弟です」と自己紹介が書かれていた。

初対面の弟さんはジーンズにツイードのジャケットという画家らしい服装をしていた。個展の絵を一枚ずつ見て回った。どの作品も心をなごます雰囲気があった。私は絵葉書にあったプラムの木の前で私は足を止め、[もしこの画家が杏林伝説を描くと、どんな感じの絵になるのだろうか]と想像した。

翌日、もう一度絵を見たくて三越に出かけていった。そして昨日ふと思ったこと、つまりこの画家が描く[杏林伝説の絵を見てみたい]という気持ちを抑えられなくなった。私は画家に思い切って話しかけた。「絵を描いてもらえませんか。それも伝説の絵を想像で描いて欲しいのです。」彼は一瞬戸惑った表情を見せたが、杏林伝説の話をすると、「いいですよ」と快く引き受けてくれた。彼はフランスに帰るので出来上がりは1年後、描くための資料はこちらから送ることになった。

長野県の更埴市には有名な杏の林がある。絵を正確に描くためにはここの写真だけではなく、花の拡大写真や杏によく似た梅や桃の写真も集めなければならなかった。さらに問題になったのは 董奉 ( とうほう ) の姿だ。日本の漢方医はクワイ頭(ポニーテール)という分かりやすい格好をしていたが、中国の医者の服装が分からない。漢方薬メーカーに問い合わせたが資料はないという。董奉は神仙伝に出てくる人物で、実在したかどうかはっきりしないし、中国は多民族国家なので服装もまちまちだ。そこで漢方の歴史に詳しい専門家に手紙を書いて教えてもらったところ、医者だから特別な格好というのはないという。
そこで伝説ができた紀元3~5世紀頃の服装の参考にするため、友人を通じて三国誌時代の資料を中国から送ってもらった。こういう資料とともに神秘的な山里や桃源郷的な雰囲気のある写真を集めてフランスに送った。

杏林伝説絵を楽しみに待っていたある日、山本先生が亡くなったとの訃報が届いた。告別式に出席したいと思ったが、家族は弟子たちの出入りを認めなかった。古くからの弟子とご家族の間で何があったのか、私には分からないことだった。
私は絵を山本先生の形見だと思って出来上がりを待つことにした。それしか私には山本先生を偲ぶ方法はなかった。1年7か月後、個展を開くために上森さんが帰国した。はじめて杏林伝説の絵をみた時は本当に嬉しかった。想像以上の出来栄えだったからだ。

この絵をみる度に私は山本先生を思い出す。先生は本当の名医だった。そして、大変優しい心の持ち主だった。杏の花が咲き乱れるこの林の中を、董奉や山本先生の歩んだ後を、私も歩いて行きたいと思う。

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