第8回「漢方医としての自覚」
漢方医としての自覚
漢方を志してふと気づくと10年の歳月が流れていた。私はようやく一人前の漢方医になれたと確信した。鐘紡記念病院での漢方外来は私に自信を与えてくれた。鐘紡記念病院には私の他にも高名な漢方医が何人か診療をしていた。その先生たちの患者数を何倍も上回る患者さんが私の診察を受けにきてくれた。それは山本先生が惜しみなく医術を教えてくれたおかげだった。
戦後の高度成長期に合わせるように復活した漢方は、初めは小さな流れでしかなかったが、次第に大きな流れとなって流れ始めた。私は研修医時代の尊敬する教授の死により偶然にもこの川の流れに遭遇し、山本巌先生という素晴らしい師に出会って漢方医としての腕を上げることができた。
この漢方復活の流れの中で科学的精神に基づいた山本流漢方を広げようと私は決心する。
日本に本当の漢方を根づかせるためにはどうしたらいいのだろう。いちばん良い方法は、漢方メーカー主導ではなく、医者が主体となって漢方の講座を大学に作ることだ。そこでは思想の強制はせず、日本漢方も含め様々な漢方思想を多面的に研究統合し、新しい医学を作っていけばよい。私は自分の母校に漢方研究所を作りたいと思った。それは母校のためにも大変役に立つはずだし、もし山本先生を客員教授に招くことができれば多くの患者さんを救うことにもなる。山本先生もきっと私からの要請を受け入れてくれるだろうと思った。
私は母校の評議員をしていたので、理事長に漢方研究所を作りたいと頼みにいこうと考えた。あいにく理事長は体調を崩して何ヶ月も評議員会に出席していなかった。そこで学長に構想を聞いてもらおうと思った。幾つかの小さな漢方メーカーと交渉して具体的な寄付金額を提示してもらってから学長との交渉に出かけた。
「先生、本学に漢方研究所を作りたいのです。漢方メーカーが資金援助を約束してくれています。大学の資金は1円もいりません。外来をする場所を貸してもらえませんか。外来が軌道に乗れば、他の診療科との連携を深めて難病の治療に当たりたいと思います。将来、鍼灸部門も併設していければと考えています。検討していただけませんか?」外来患者さんを増やして費用を稼ぎ出すことは鐘紡記念病院の経験から自信もあった。
学長が口を開いた。「日笠君はスケールが小さいね。もっと大きなことを考えねばならない。私が主治医をしているシオナミ製薬のシオナミさんに協力を依頼して臨床治験研究所をつくることだ。入院施設と研究所を併設し、敷地には動物の実験棟も必要だ」と学長は話を始めた。それはアメリカ型の壮大な臨床治験病院の構想だった。話は1時間にも及んだ。最後に学長は「もっともこの話の実現する可能性は99%ない」と話を終えた。私の話はただ永島学長の想像力に火をつけただけだった。
今から考えると漢方医学の潮流は大学病院までは届いていなかった。現在では多くの大学に漢方外来が出来ている(とはいっても大手漢方メーカー1社による寄附講座が多いと聞いている)が、私は時代を先取りして母校に漢方研究所を作ることはできなかった。
漢方研究所の構想がうまくいかず、落胆している私のもとに漢方の講演依頼が舞い込むようになった。講演は山本先生の考え方を伝えるいい機会だった。そこで積極的に講演を引き受けた。一番熱心に依頼をしてきたのはO社の常務だ。常務の依頼で九州を中心に何度も講演旅行に出かけた。ある日、講演から帰りの飛行機の中でO社の社員から「常務が韓国に行ったが、入国を拒否された」という話を聞いた。学生運動が入国を拒否された理由らしかった。
それから十数年後、日本赤軍の重信房子と常務が喫茶店で密会している映像がニュースとして放映された。私が想像していたより常務は筋金入りの過激派だったようだ。重信房子の逃亡を助けた疑いでしばらく拘置所に入っていたが、嫌疑がはれて不起訴処分になり、釈放された。しばらくして会うと、歳を取ってからの収監はずいぶん体にこたえたと言葉少なげに語った。そんな経歴を持つ常務だが、山本先生の提唱する漢方を常務、自らが理解し、世間に広げる手伝いをしてくれたことに私はいまでも感謝している。
同名異種の生薬
漢方医になり、漢方理論や処方学に詳しくなると今度は生薬に興味が向いた。生薬には同名異種の生薬(違う植物なのに漢方名は同じ物)があるから取り扱いには注意が必要だ。ある人が中国から 木通 ( もくつう ) という漢方薬を個人輸入で取り寄せて飲んだ。だがその木通は日本の木通ではなく 関木通 ( かんもくつう ) という別の生薬で、それに含まれる毒性物質によって、腎不全になってしまった。漢方は安全だと思われているが、やはり専門的な知識がないと取り返しのつかないことが起こる。
エジプトのミイラを作る際に使われたミルラという生薬がある。ミイラという英語の源語にもなった生薬で、漢方薬の名前は 没薬 ( もつやく ) という。防腐剤や痛み止めとして紀元前から使われてきた。聖書の中にも没薬が登場する。キリストがゴルゴダの丘で十字架にはりつけにされた時、十字架のそばにいた兵士が没薬を混ぜたぶどう酒を槍の先につけた海綿に吸わせ、キリストの口元にもっていった。キリストにこの没薬酒を飲むように勧めたのだ。だが、キリストは飲まなかった。没薬はぶどう酒にまぜるとアルコールの痛覚鈍化作用と相乗して痛みを麻痺させる効果が強くなる。この没薬は木の樹液を固めたものだが、古来から日本にある没薬はまったく別の生薬で、カイガラムシの分泌液だ。正倉院に納められている没薬もこのカイガラムシの分泌液。本物の没薬が日本に輸入されるようになってから10年も経っていない。だから文献だけを頼りに生薬を使っているととんでもないことになる。
ある日、本屋で本を立ち読みしていると、ウコンという題名の本が目に入った。ウコンがブームになる以前のことだ。農林水産省のお役人が書いた本で、これがウコンに関する最初の本だろう。興味をもった私は、沖縄からウコンを取り寄せた。さらに比較するために中国からもウコンを取り寄せた。2つを比べてみると、まったく別の生薬だった。日本のウコンが中国でいうウコンでないなら、どんな生薬なのか?問屋に聞いても分からないので、ウコンの産地である沖縄へ生薬調査に出かけることにした。2月の寒い時期だった。1泊2日の安いパックを探して、ウコンの生産者を幾つか回ることにした。沖縄でいうウコンはタクアンの色づけやカレーの香辛料として使われるターメリックの亜種で、春に紫の花が咲き、普通のターメリックとは違って苦味があることが分かった。ウコンは沖縄では二日酔い防止に使われ、フグの養殖にも使われているという。フグは養殖しているとウイルス性肝炎で死んでしまうことが多い。だが餌にウコンをまぜると歩留まりがよくなるのだと聞いた。やはり生薬は実際に詳しく調べてみなければ分からない。
沖縄での調査が終わり、帰りの飛行機までに時間があったので海を見にいった。本土は寒いのに沖縄は初夏を思わせる気候で、ワイシャツ一枚でも暑いくらいだった。私はすっかり沖縄の魅力にはまってしまった。もう10年以上前のことだが、それからというもの毎年正月休みには沖縄に出かけることにした。
大晦日はホテルのカウントダウンに出席してシャンパンで新年を祝う。その後、沖縄民謡を宿泊客と一緒に踊り、正月は餅つきを楽しむ。後は何もしない。青い海を目の前に砂浜に座って本を読む。飽きたら裸足で波打ち際を歩き、疲れたら海を見ながら寝る。沖縄は飛行機に乗ると3時間ほどで着き、空港からホテルまで10分だ、東京からでも関西からでも3-4時間でこの美しい海が見られる。ウコンの調査は私に沖縄の美しい海も教えてくれた。
生薬の薬効のばらつき
生薬は同名異種の物があって取り扱いが難しいが、難しさはそれだけではない。生薬を使っていると、今まで効いていた生薬が突然効かなくなることがある。生薬は取れる産地、取れた年によって有効成分が5倍くらい違う。だから突然効かなくなる。どう効く生薬を探すかが難しい。生薬の形状や値段では効くか効かないかが判断できないこともある。そうなれば購入して試してみるしかない。安定した効果のある生薬を手に入れるのは意外に難しい。
山本内科をのぞくと、先生は薬効の強い 田七 ( でんしち ) を探していた。田七は中国の雲南省で取れる止血の薬だ。山本先生はエイズの問題が起こったときにこの田七を血友病の患者さんに使っていた。強力な止血作用があるというので、私も白血病の患者さんに使ったことがあるが、本当によく止血する。あまりに効くので勤務している病院の職員20人に協力してもらって出血時間と凝固時間を調べたら田七を飲む前に比べて半分になった。このよく効く田七が手に入らなくなったのだ。
ベトナム戦争のときに中国軍がベトナムに進軍して田七を銃創の治療に使っていた。それをベトコンが使い、米兵も使っていたと言われている。雲南省の田七の畑には金不換(金とでも交換できない)との看板があり、厳重な監視の下で栽培されている。栽培した根は、他の地域で植えられることを恐れて加熱処理した後に出荷される。いい田七を使うために買ってから試すのでは、費用がかかりすぎる。なんとかいい田七を選んで買えないかと考えた。雲南省の現地に行けばなんとかなるのではないかと思い、北京に住む友人に電話して現地まで旅行して調べてほしいと頼んだ。だが治安が悪く、少数民族の暴動があって、殺されても死体も出ないだろうと言われた。それならば中国の大きな生薬問屋に行って仕入れルートを調査すれば確実に効く商品を手に入れることが出来るかもしれない。そこで中国へ行こうと思った。せっかく中国に行くのだから、できれば中医学の有名な先生にも会ってみたいし、家伝の秘方を調べてみたいと思った。陶先生の所に相談に行くと、夏休みに里帰りするというので、通訳として同行してもらうことになった。
北京に着くと王府井(ワンフウチン)の大きな生薬問屋に出かけた。問屋の店員が言うのには、田七は各畑のものが混ぜ合わせて送られてくる。だからどこの畑で取れたのか産地を追跡するのは不可能だという。
田七は 雲南白薬 ( うんなんびゃくやく ) として中国でも売られている。このビンに入った田七の粉はあまり効かないのだが、蓋の裏に赤い粒のような丸薬がついている。この緊急用の丸薬は大変よく効く。つまり効く田七の産地を知っている人物がどこかにいるはずだ。八方手を尽くしたが、残念ながら効く田七を手に入れることは出来なかった。
せっかく中国に来たのだから、中医学の腕のいい先生に会いたいと思った。陶先生の紹介で老中医(高名な医者の意味)の先生に会いにいった。15代続く中医学の医家に生まれた先生だ。当時64歳、周恩来や毛沢東が着ていたマオスーツを着て現れた。名前は明かすことができない。過去に国家主席の主治医をしていたことがあり、それが機密だからだ。何年か後、この先生を日本に1ヶ月招いて私の診療所で診察を教えてもらった。この先生は国会議員であり、外交官パスポートで来日した。
旅行のもう一つの目的は家伝の処方で効くものがあれば手に入れようと思っていたことだ。いい処方があればお金で買えないかと考えた。北京大学を出た社員の給料が月に4千円だから日本円は使い勝手が大きかった。信用できる人物を探し出してホテルの部屋で面会した。その人物は白血病を確実に治せる中医を知っているという。そこで、家伝の秘方をお金で買うことができないか聞いてみた。すると突然、「先生、散歩に行きましょう」という。ホテルの前の道を歩きながら「先生、めったなことは言わないでほしい。外国人用のホテルはすべて盗聴されている。家伝の処方は国家の財産として守られている。国家の財産を外国に売ることは国家に対する反逆罪になる」という。さらに続けて「あなたは鍼麻酔を知っているだろう。鍼麻酔をすると、脳手術を受けている患者が医者と話をしながら手術をうけることができる。ニュースとして見たことがあるはずだ。この鍼の技術を公開しないことを国家が決めた。だから鍼麻酔の話題は消えただろう」という。確かに鍼麻酔による手術を見学させていた中国政府は突然その見学を中止し、それ以降、鍼麻酔に関する情報は地上から消えてしまった。なるほどそういうことか。私は中医学の一つの側面を見る思いがした。
北京空港で帰りの飛行機を待ちながら、私は公安警察に尋問されるのではないかと落ち着かなかった。今回の中国旅行は中医学の重鎮と知り合える価値のあるものだったが、それ以外のことはうまくいかなかった。
四川省の生薬市場
いろんな生薬が天井から吊るされている。左端は熊の骨である。漢方では竜骨といって哺乳動物の化石を漢方薬として使用してきた。だが化石はそれほど多く採取できないから熊の骨を長期保存して竜骨の代用品として使う。竜骨は鎮静剤として用いられる。
- 第8回「漢方医としての自覚」
- 2007年10月03日
「漢方医」目次
- はじめに(2007.06.25)
- 第1回「漢方医」(2007.06.25)
- 第2回「大学時代」(2007.07.10)
- 第3回「不思議な研究所」(2007.07.24)
- 第4回「葛根湯の謎」(2007.08.07)
- 第5回「漢方メーカーの恫喝」(2007.08.21)
- 第6回「鍼灸治療の研究」(2007.09.04)
- 第7回「井穴鍼」(2007.09.18)
- 第8回「漢方医としての自覚」(2007.10.03)
- 第9回「効かない保険漢方薬」(2007.10.16)
- 第10回「本物の気功師」(2007.11.13)
- 第11回「開業そして山本先生との別れ」(2007.11.13)
- 第12回「日本漢方と中医学の違い」(最終回)(2007.11.27)
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