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漢方医

第2回「大学時代」

大学時代

遣唐使や遣隋使によって中国から日本に漢方医学が伝えられた後、江戸時代末期まで医学の主流は漢方だった。もちろんオランダ医学を学んだ蘭医はいるにはいたが、きわめて少数だった。その漢方医が、1961年頃、つまり祖父が漢方薬の投与を受けた時には100人ほどに減っていた。明治元年が1868年だから100年もしないうちに激減してしまったことになる。もし漢方が効能もない迷信的な伝統医学なら消滅しても不思議ではない。だが今日、ほとんどの大学に漢方講座があり、どこの医院でも漢方が普通に使われている。現代これほど再評価されている漢方がどうしてそのような状況に追い込まれてしまったのだろう。

それは大きく分けて3つの理由による。まず19世紀からの西洋医学の進歩がめざましかったことだ。1868年リスターの消毒法により手術後の感染が飛躍的に抑えられるようになり、クロロホルムといった麻酔薬で手術ができるようになった。ペニシリン、ストレプトマイシンの発明により、感染症、特に不治の病だった結核を治すことに西洋医学は成功した。これに比べて漢方はほとんど進歩せずに留まっていた。

2番目の理由は明治政府が漢方医学を否定し、西洋医学を学んだ者にのみ医者の資格を与えるという法律を1883年に制定したためだ。もちろん西洋医学の教育を受けて医師になってから漢方医学を学ぶ自由は与えられていた。だが西洋医学の飛躍的な発展を目にして漢方をわざわざ学ぼうとする者はほとんどいなかった。

さらに1961年の国民皆保険の導入が漢方衰退に追い討ちをかける。当時の健康保険の自己負担率は10%だったから西洋医学で1万円の治療を受けても千円ですむ。ところが漢方診療は保険適用でないため1万円の診療費が額面どおりの負担になる。同じ効き目で同じ値段の漢方薬と西洋薬があっても漢方薬の値段は西洋薬の10倍もすることになってしまった。これらの3つの理由から漢方は急速に衰退していく。

法律が制定されると世の中の流れが大きく変わる。それは当然のことなのだが、法律が作られたときには想定されていない事態が起こり、それがさらに世の中を変えていくことがある。国民が安心して医療を受けられるための国民皆保険制度は漢方を瀕死の状態に追い込むのである。

教授の死

私の大学時代の話にもどろう。高校を卒業して私は現役で東京にある私立大学の医学部に合格した。だが親の負担を考え、進学せず浪人した。その後、地元に新設された医大に合格した。医学部での講義は楽しく学費半額免除の特待生として学業を終えた。
卒業後は尊敬する教授のいる循環器内科で研修を始めた。教授は英語とドイツ語に堪能であり、医者としての評判も高く、しかも優しい性格の持ち主であった。医局と廊下を挟んで向かい側にある教授室のドアはいつも開いていた。医局員の誰でもが気軽に部屋に入って教授に質問ができるようにとの心づかいからだ。教授室の前を通ると、論文を読んでいる教授の姿をよく見かけた。ドアが閉まっているのは来客中の証拠で、それ以外でドアが閉じていることはなかった。教授は医局員に対しても紳士的だった。朝、出勤して来ると必ず当直医に「ご苦労さん」と声をかけた。立派な教授の下で医学を学ぶのは大変な楽しみであった。

ある日、教授回診のために医局員がナースステーションに集まっていた。しばらくすると、教授が白衣をなびかせて入ってきた。手には胸部のレントゲン写真を持っている。
シャーカッセンにレントゲンを挟むと「今、撮ったばかりの僕のレントゲンだ。みんなで診断してくれ」といった。左肺に500円玉くらいの陰影が見える。
講師の先生が「あ、先生、これは・・・。すぐに入院して検査しなければいけませんね」と絞り出すような声でいった。肺癌だ。私は教授のすぐ側に立っていた。教授はかすかな声で、「これは癌ではなかろう」と2度繰り返しつぶやいた。ふと視線を下に落とすと、教授の握り締めた拳がかすかに震えていた。

翌日から教授は病棟の住人になった。助教授による回診には教授の診察も含まれていた。教授が例外扱いを嫌ったためだ。日々、弱っていく教授を見るのは辛いことだった。9ヶ月ほどしたある日、教授は帰らぬ人となった。教授の意思により遺体は病理解剖された。胸が切り開かれ、肺や心臓が取り出されていく。頭蓋骨を切り裂く電動ノコギリの音を聞きながら私は「教授のような立派な医者になりたい。」と思った。そして、「医者も結局は病を得て患者になり、そして死んでいくのだ」と思った。55歳、早すぎる死であった。

人生には思いもかけない出来事が起こる。予想できる心配事は実際には起こらないことが多いし、また起こっても対応できる。だが予想もできないようなことが起こるとそれは大きく人生を変えるきっかけになる。教授の突然の死によって私は放浪の旅に出ることになる。

放浪の旅

医学部の教授は医局員の一生を左右する絶大な権力を持っていた。その権力の源は大きく分けて3つの要素によって成り立っていた。まずは教授の研究者としての能力だ。研究に優れた教授は医局員に学位を取らせる。さらに研究発表を続けさせ、他大学の教授になれるほどの研究業績をつけてくれる。教授が医学会の重鎮なら業績のある医局員を学会の役員に推薦したりもする。こういう教授の下では研究者としての道が開けてくる。

臨床能力の高い教授も頼りになる存在だ。たとえば全国に知られた外科医であれば、患者が全国から集まってくる。そういう教授の下にいれば技術を学ぶことができるうえに、めったにお目にかかれないような症例をたくさん経験することになる。そうなると医局員には大病院から来て欲しいという声がかかるようになる。

学者でもなく、臨床の腕も飛び抜けていなくても政治力のある教授というのもいる。そういう教授は企業から研究費を集めたり、医局員のために就職の世話をしたり、有名な学者の所に医局員を留学させたりして医局を盛り立てていく。この3つの能力の一つでも持っていれば、その講座にいても将来が開けてくる。問題なのは、この3つの能力のどれも持ち合わせていない人物が教授になった場合だ。日本では一度教授になれば、よほどのことがない限り定年まで居座りつづける。もし教授が若ければ、それはもう最悪だ。定年までの長い期間、無能な教授は医局に居座り続ける。私は研修医としてスタートを切ったばっかりの時期にそういう不幸な立場に立たされてしまった。私は大学病院を辞め、県立病院の内科に就職することになる。

私の送別会の1コマ

私の送別会の1コマ

研修医の私が辞めるだけなのに送別会には多くの医者やナースが集まってくれた。写真は助教授やナースが白い布に何かを一生懸命に書いている。これは洗濯から返ってきて医局のロッカーに置いてあった私の白衣のズボンだ。友人が無断で持ち出し、色紙代わりに別れの言葉を書いている。それにしてもチャックの横に「ここは私の物。誰にも渡さないわ」と書いたA子さん、今でも恥ずかしくてズボンを人に見せることができないじゃないか。

県立の東洋医学研究所

県立病院に就職してみると、驚いたことに東洋医学研究所が併設されていた。設立は1977年。漢方医学を研究する施設として最も早い時期の設立になる。私が西洋医学の勉強に夢中になっている間に漢方は復活の産声をあげていたのだ。漢方の復興は何時起こってきたのだろうか。

1957年、大阪にある小さな漢方メーカーが世界で初めて漢方エキスを発売した。それまで漢方薬は煎じ薬として飲まれてきた。煎じ薬とは刻んだ生薬をいくつか組み合わせた物だ。風邪薬として有名な葛根湯なら7種類の生薬を混ぜ合わせている。これを600から800ccくらいのお湯で20分ほど煎じてその上澄み液を飲む。飲むのには手間がかかるし味も悪い。この煎じた液をフリーズドライにして薬局向けの薬として売り出した。煎じ薬が炊き出しのコーヒーだとすると、漢方エキスはインスタントコーヒーのようなものだ。エキスの吸湿性を抑えるために乳糖やトウモロコシの澱粉などが入れられたから、煎じ薬に比べてずいぶん飲みやすくなった。
煎じ薬という面倒な薬からエキス漢方という便利な薬になったことで普及に拍車がかかる。ちなみに我々が飲んでいる保険漢方薬のほとんどがエキス漢方である。

煎じ薬の拡大写真

煎じ薬の拡大写真

煎じ薬は草の根や木の皮を刻んで混ぜ合わせたものだ。拡大してみると、木屑の集合体に見える。修治といって植物の原材料をそのまま乾燥させて使うのではなく、蒸したり、酒に浸したりして使うこともある。一般的ではないが、サソリやヤモリといった動物生薬を使う場合もある。それにしてもこんな物が癌にも効くのだから、漢方とは不思議なものである。

漢方の復興に大きな影響をもたらした第二の要素は、このエキス漢方が保険収載されて健康保険で利用できるようになったことだ。1967年、たった6品目だが漢方エキスが保険収載された。この保険収載には日本医師会長だった武見太郎氏が政治力を発揮したといわれている。その後、少しずつエキス漢方が追加掲載されていき、現在使われているエキス漢方薬がすべて保険収載されるには14年の歳月が必要となる。

田中角栄氏による1972年の日中国交回復も漢方発展の重要な転換点となる。日本は国交のない中国から香港を介して漢方薬を買っていた。だが輸入は困難だった。少しでも中国から有利に買うために、漢方薬メーカーでは幹部社員が共産党に入党して相手方の歓心を買おうとした。これが国交回復によって直接に本土から買い付けられるようになった。

漢方のエキス化、保険収載、生薬の直接輸入という3つの推進力が漢方を飛躍的に復権させていくのだが、そのお膳立ては私が医学部を卒業する前に整っていた。

病院の派閥

他大学が支配する県立病院に就職してみて、私は初めて医学界の派閥の強さを感じることになる。当時、医者の人事権は県立病院にあるのではなく、大学の医局が握っていた。教授が大病院を支配下に置けば医局員の就職口として好ましいばかりでなく、豊富な症例を集めることができる。小説「白い巨塔」的な社会がそこに広がっていた。

就職した県立病院の循環器科には最先端の機器が配置されていた。その機器を使えば最先端の治療を行うことができる。そして最新の技術を学びながら学会発表ができる。そんな環境のよい循環器内科によそ者の私を置いてくれるはずもなかった。私は消化器内科に配属された。そこには他校出身者ばかりが集められていた。

就職してしばらくすると、新人の歓迎会を開いてくれるという。会場に行くと畳敷きの広間には冷えた天ぷらと水分のなくなった刺身がお膳の上に置かれていた。酒が入り宴もたけなわになると、婦長が新入医師にダンスを踊れという。私たちは広間の真ん中に連れ出されてダンスを踊らされる羽目になった。この儀式は毎年恒例になっているようだった。私が腰を振りながら観客席を見ると豆狸のように太った婦長が坐って笑い転げている。婦長は日常のストレスをこうして発散していた。

就職して1年が過ぎたある日、内科部長から呼ばれた。入院患者で亡くなりそうな人がいる。その人の主治医になって欲しいが、治療はしなくていいと言う。今までに2回も病院の症例検討会で検討したが、どの治療も無駄だった。ただ看取って欲しい。患者の容態から一週間はもたないだろうという。「主治医の先生はどうしたのですか」と聞くと、「助手として大学病院に戻ることになった」という。「患者さんが一週間しかもたないなら看取ってあげてから大学に戻ればいいじゃないか。ただ看取るだけの仕事を押しつけるなんて」と思った。

病室をのぞくと40歳くらいの女性が酸素マスクをして横たわっていた。唇は真っ青で、血中の酸素濃度が異常に低いことが分かった。脈は速く、患者は肩をゆするように浅くて早い呼吸を繰り返している。看護師詰め所に行きカルテを見て膠原病の患者だと分かった。レントゲンを見ると肺が白く曇っていて、炎症が肺全体に広がっていることを示していた。問題はこの肺炎が感染症によるものか、もしくは膠原病によるものかであった。様々な抗生物質、ステロイドが投与され、病状を分からなくしていた。カルテを何回も読み返し、レントゲンを見ているうちに、癌で早世した教授から聞いた話を思い出した。

「日笠君、臨床でわけの分からない症例に出会ったら、梅毒か結核を疑いなさい。」そんなことを教えてくれた教授の顔がありありと思い出された。
カルテの中の検査結果を見ると梅毒の検査はマイナス。残るのは結核だ。レントゲンは下肺野に結核を思わせるような陰があるのだが、あまりに様々な治療が行われているからどう判断してよいか分からない。ツベルクリン反応はどうだろう。カルテを詳しく調べても実施されていない。患者さんが死にかけているような状態ではツベルクリン反応は陰性になる。検査をする時間的余裕もない。私は「ストレプトマイシン1gを1日1回、3日間続けて打つように」とカルテに指示を書いた。はたして3日目に病室をのぞくと、患者さんの唇にうっすらと赤みがさしている。やっぱり結核だったのだ。それから1年ほどしてその患者さんは元気に退院していった。私は患者さんの背中を見送りながら亡き先生に「ありがとう」と心の中でつぶやいたのだった。

人は差別される環境にいると能力が落ちる。差別する側も人を見下しているうちに能力が落ちる。私は病院を辞めて新しい環境に身をおくことを決意する。だが、そこにも新しい試練が待ち受けていた。

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